第2回『このミス』大賞 1次通過作品 立読み

『ウォール・シティ』 葉月堅

第一部 ダウンタウン

第一章 ようこそ、ウォール・シティへ

 1-1 船上より

 ウォール・シティへは、対岸の国際空港に敷設された桟橋からフェリー・ボートに乗り、湾を横切ってゆく。いまのところ、それ以外にルートはない。
 だから、国内線の最終便で、人工島の空港に降り立ち、人も疎らなだだっぴろいコンコースを靴音響かせ大急ぎで駆け抜けると、桟橋に出て、出発間際のぼろ船に飛び乗った。時計の針はすでに夜の十時を廻り、この連絡船も最終便である。
 こうする以外、ウォール・シティにゆけないというのは、その市が背の高い、ぶ厚い壁に周囲を取り囲まれているからである。入口は、湾に面した海岸の港一箇所に限定され、陸伝いになかに這入ることはできなかった。
 ウォール・シティというのは、もちろん、俗称である。とはいえ、この市が、かつての正式名称で呼ばれることはない。それほどまでに、ウォール・シティの成立した事情が世間に与えた衝撃は大きかった。
 彼女の飛び乗った船は、文字どおりのぼろ船で、長年潮に晒され船体の鉄板もあちこち腐食し、波に揺られるたびに、不穏な軋み声が船底のほうから聴こえてくるような老朽船だった。それに、どこもかしこも汚れていた。船内には生臭い臭いが濃く漂い、だから、十一月の海の夜風は身を切るように冷たかったが、ただ新鮮な空気を吸いたくて、彼女は甲板に出た。
 と同時に、そうでもしないと、自分がまだ日本にいるのだという単純な事実が、ふと信じられなくなりそうで怖い気もした。廻りにいる乗客は、右をみても左をみても外国人ばかりで、しかも、いずれもうらぶれた男や女たちだった。外見だけでは何人とも解からない、さまざまな人種を雑多に取り揃えたみたいな風景だった。
 日本人は彼女ひとりだけだった。
 きつい潮風に髪を晒し、コートの背を丸くした彼女の心境は複雑だった。外でもない、ウォール・シティは彼女の生まれ育った市だったからである。いや、いまだウォール・シティは存在しなかった。正式名称で呼ばれていたころの、なんの変哲もない地方都市。県庁所在地。それがいまでは、人を寄せつけない壁で囲われたグロテスクな街に変貌してしまっている。
 そのなかでなにが起きているのか、正確に知る者は誰もいないし、中央政府すらその処理に困り、手を拱いて遠巻きにみているだけなのだ。
 変われば変わったものというしかない。子どものころには、この湾の砂浜の海岸で浮輪を浮かべよく遊んだものだ。砂遊びもしたし、釣りも潮干狩りもした。想い出がいっぱい詰まっている。
 それに、そのころはまだ、父も母も生きていた……。
 が、見馴れているはずのその湾も、いまは夢のなかの風景のようによそよそしい。その原因の大半は、もちろん、対岸の空に低く垂れ込めた雨雲を、ぼんやりと不穏なオレンジ色に染めるウォール・シティの街の灯りの所為だった。ぼろ船の動きは鈍く、まだ湾の半分も渡り切ってはいないから、そのオレンジ色の雲の下に潜むビル街の黒い影を目撃することはできなかったが、めざすウォール・シティの所在と、その人工的な喧騒だけは充分推測することはできた。
 潮の香りが懐かしかった。
 いつのまにか小雨が降り出し、冷たく髪が濡れた。相変わらず、十一月のきつい風が吹いている。こんなところで風邪でもひいたら厄介だ。重いバッグを肩に掛け直すと、しぶしぶ悪臭こもる船内に通じる鉄の扉を押し開けた。
 暗くて冷え冷えとした狭い通路。それを通って吹き抜けの二階部分の回廊に出た。手すり越しに下を覗き込むと、レストラン兼ラウンジ兼ゲーム・コーナーになっている。レストランの営業時間はすでに終わり、照明の落とされたラウンジとゲーム・コーナーに汚れたジャンパーの背中が幾つかみえるだけだ。人影はどれも胡散臭そうな外人ばかりのようだった。

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