第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 闇だまり

『闇だまり』

雨地草太郎(あまち・そうたろう)28歳
1991年生まれ。長野県生まれ。観光施設職員。


  
プロローグ 夏のその日は

 教室で咳き込んだら、血の混じったつばがノートに飛んだ。
 日本史の教師に見られて、すぐに早退させられた。
 私は国道につながる橋をよろよろ歩いていた。
 すれ違う人がみんな私を見た。
 アザだらけの顔と切り傷だらけの足を晒しているから仕方ない。
 さっき、男の人が声をかけたそうにしていた。けれど結局歩き去った。満身創痍の女子中学生に近づいて、あらぬ疑いをかけられたくなかったのだろう。
 国道を右手に折れて坂道を下った。
 歩くだけで涙がにじんだ。
 ガラスを踏んだ足の裏が痛かった。胸の奥深くや肩のあたりも鈍くしびれた。
 正面に自宅が見えた。ツタの這う、黒ずんだ家だった。柱は弱り、床は軋み、階段はやたら急角度の古い家屋。
 私は重たい戸をスライドさせた。
 砕けたガラス、破れた戸、倒れた家具はそのままだった。
 三日前、父と繰り広げた死闘の痕跡。
 あれから父は帰ってこない。
 私にも母さんにも、荒れ果てた家を元に戻す気力はなかった。
「母さん、ただいま」
 廊下の奥に声をかけた。返事はない。いつものことだ。
 私はスリッパを履いてガラス片の上を通った。
 左手に居間がある。
 倒れた戸を踏んで入ったら、黒いかたまりが映った。
 母さんの頭だった。台にべしゃりと顔を押しつけている。
「母さん、起きられたんだ」
 何も返ってこない。転がり落ちたテレビをよけて回り込む。母さんの右足は本来曲がるはずのないところまで曲がっていた。父にやられた怪我だった。
「母さん……」
 言いかけて、初めて気づいた。
 台に突っ伏している母さんの、胸のあたりからポタポタと何かが垂れていた。瞬時に血だとは理解できなかった。
 慌てて母さんの肩を掴んだ。母さんの右手は胸に向かっていた。掴んでいたのは包丁で、心臓に突き刺さっていた。背中から先端が覗いている。
 手を離すと、母さんはあっけなく横に倒れた。
 もう、すべてが手遅れなのは明らかだった。
 ――ずるい。
 涙があふれてきた。
 ――勝手に逝くなんて、ずるいよ。
 私は座り込んで、じくじくと疼く傷と一緒に、しばらく母を見つめていた。……。

第一章 再会

 ドリルの回転を止めて、ゴーグルを外す。
 設計図通りに穴を開け終えた。
 旋盤から金属板を外す。鉄の焦げた匂いがした。それもすぐに、油やシンナーの臭気でかき消されていく。
 見上げるような機械の間を通って作業台のところへ行った。
「剣(けん)さん、できました」
 そのまま係長に部品を渡した。
「おう。じゃあ、もう掃除始めていいぞ」
「わかりました」
 係長――浅井剣次郎に返事をして、私はロッカーへ向かった。
 時刻は午後五時になろうとしていた。今日は残業もなく帰れる。
 ロッカーからほうきを取り出すと、自分専用の旋盤の周りを掃く。金属加工が私の担当なので、金屑が大量に出る。緑に塗られた床も傷だらけで黒いひび割れが目立つ。さっさとかき集めてちりとりに乗せると、外の廃棄スペースにシュートしておしまい。
 ちょうど終業のベルが鳴った。
 定時組が掃除に入る。
 私は一足先に更衣室に入った。
 まだ稼働中の機械がごうごうと音を立てている。工場内では大声を出さないと、まともな会話もできない。音楽は一応かかっているのだが、出入り口付近まで行かなければほぼ聞こえない。
 作業着をハンガーにかけて薄手のデニムジャケットを羽織る。この会社の作業着は上しか指定されていないので下は自由だ。私はホームセンターで買った安物の作業用ズボンを使っている。意外に柔軟性があって着心地がいい。
「お疲れー」
 着替え終わったところに、同僚の森山が入ってきた。彼はすぐ視線を逸らして奥へ行く。加工現場の女は私だけで、更衣室が同じなので気まずいのだ。着替えといっても一番上の服を変えるだけだから、恥ずかしがる必要もないのだが。
「今井は今日、飲みに行くのか?」
「行かないですよ。最近筋トレサボり気味なので、帰ってランニングです」
「真面目すぎだろ。アスリート目指してんのかよ」
「そうじゃないですけど、なまると不安になるので」
「よくわかんねぇな」
「ま、個人的な事情ってやつです」
「そっか。――莉衣(りい)ちゃんは?」
「出るって言ってましたよ。週末だから忙しくなるって」
「よし、じゃあ俺、今日は〈アリア〉に行くわ」
「莉衣に手を出したらねじりますよ?」
「何を」
「何かをです」
 笑いかけたが、引かれた。
「それじゃ、お先です」
 私は更衣室を出てタイムカードを押した。
「お先に失礼します」
 作業台で図面と向き合っている剣さんに近づいて声をかける。
 剣さんは上体を起こした。百八十センチの長身だ。百六十センチの私は見上げなければならない。
「ああ、お疲れ。気をつけて帰れよ」
「また残業ですか?」
 剣さんは鋭い目をさらに細める。
「残念ながらな。どうも先週組んだ金型だと大きなバリが出るらしい。これからバラして修正だ」
「私のやった部分じゃないですよね」
「関係ないから安心して飲みに行け」
「さっき森山さんにもそう言われましたけど、私ってそんな飲んだくれに思われてるんですか?」
「温泉街に出入りしてるのは事実だろう」
「飲まない日も多いんですけどね。莉衣を迎えに行くだけで」
「一人で歩いてる女はあそこだと目立つからな。そのせいじゃないか?」
「ですかねえ」
 じゃ、と手を挙げて私は工場を出た。
 夕空は真っ赤に染まっていた。〈松田精工〉という社名のプレートも夕日に反射していた。秋が本格的に始まろうとしている。
 二ヶ所ある駐車場のうち、道路を渡った方に向かう。
 中古で買った青のインプレッサに乗り込む。
 エンジンをかけたら、ACIDMAN(アシッドマン)の「新世界」が爆音で流れ出してビクッとした。そういえば今朝は眠かったので大音量で聴いていたのだ。眠たい朝はハードな曲がいい。恋愛とは関係ない歌詞だとなお良い。私の趣味に合っている。
 発進して農道を抜けていく。この時期は、夕日とススキのコントラストが美しい。稲にも実が入り始め、頭が下がってきている。ボコボコの農道を出て広い通りに入ったら、あとは流れに乗っていけばいい。
 何度か十字路を曲がって、およそ十分。アパートに到着した。
 築二十七年、家賃の安さ以外に取り柄のない部屋が私の城だ。
 階段を上がって最初の部屋で立ち止まる。
 カギを開けると人の気配がした。
「ただいま」
「あ、礼奈(れいな)おかえり。今日はけっこう早かったね」
「簡単な加工しかなかったから。ホントはいつもこのくらいに戻ってきたいんだけどね」
「わたしの見送りに?」
「それもある」
 同居人の鎌原(かまはら)莉衣が着替えている最中だった。ショートパンツにポンチョブラウス。うっすら茶色に染めた髪が白い服とよく似合っている。
「もう出る?」
「うん。礼奈はどうするの?」
「今日は久しぶりに体動かしたいんだよね。迎えだけ行くよ」
「わかった。じゃあまた連絡するね」
 着替えを終えると、莉衣は軽く手を振って部屋を出ていく。
 1Kの部屋に一つのテーブルとテレビ、ベッド、タンス。他にはあまり物が置かれていない。私も莉衣も派手な買い物はしないタイプだ。
 時計を見ると、六時を回っていた。
 私はジャージに着替えてアパートを出る。
 歩道を少し歩いたあと、ゆっくり走り始める。残業続きでランニングも滞りがちだ。本当なら毎日しておきたいが気力がない。それでも腹筋、腕立て伏せといった筋トレだけは遅くなってもやっている。
 私は体がなまるのが怖い。
 父のような暴漢に襲われても返り討ちにできるような女でいたい。その思いが私の体を動かす。今は長時間走っても息が上がらなくなってきた。けれど無理はいけない。ただ負荷をかけるだけでは筋肉が成長しない。適度に休ませて、その上でまた走る。
 住宅街を抜けて川沿いに出る。
 ここはランニングコースにしている人が多い。見晴らしもよく、風の吹き具合も絶妙。走るには最高の環境だ。
 私は大橋の向こうについた、温泉街の照明に目をやる。
 莉衣はあの中で働いている。
 ネットではアングラ温泉街とも呼ばれている、治安の悪いあの場所で。
 危険は多いが、給料もまずまずだ。普通にアルバイトするよりは儲かると莉衣が言っていた。いくらもらっているのかまでは訊いたことがないが、私より多いのか少ないのかは気になるところだ。
 次の橋が近づいてきた。
 河原にグラウンドがある。私は道を外れてそこへ下りていった。ベンチがあるので、座って休憩する。いくらか呼吸を整えたら同じルートを引き返すのだ。
 暗い空をぼうっと見つめる。
 ……今年も、行かなかったな。
 ふと、そんなことを思った。

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