第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み レナードの詐術

『レナードの詐術』

小塚原旬(こづかはら・しゅん)43歳
1975年生まれ。会社員。


第一章  アケルダマの悪魔


ミゲルが尋常ならざる勢いで身を乗り出したので、ゴンドラは転覆するのではないかと思われるほど横に揺れた。
ゴンドラの船頭が異国の言葉でまくし立て、同行の日本人少年たちも口々に非難の言葉をミゲルに浴びせたが、彼はそれらをものともせずにヴェネツィアの大水路(カナル・グランデ)の一角に接岸するように指示を出した。その横顔がただならぬ様子だったので、伊東マンショはディオゴ・メスキータ神父に目配せをした。大黒天のように恰幅が良く、ちりぢりの髭で顔の下半分を覆ったメスキータはそれに気付くと、船頭にゴンドラを岸に寄せるよう早口で命じた。

『千々石(ちぢわ)ミゲルはその柔和な表情とは裏腹に、四人の少年達の中でも只ならぬ強い正義感を持っている。だがそれは信仰において磐石という意味ではない。一度翻意すれば、決して主の道に戻ることはないだろう』
 メスキータの頭に、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ師の言葉が蘇った。
 一五八二年(天正十年)二月、かの本能寺の変が起こる直前、イエズス会修道士ヴァリニャーノは宣教先であった日本において、四人の少年たちから成るローマへの使節団を組織した。世に言う天正遣欧少年使節団である。彼らはいずれも九州大名の血縁者たちで、正使であり大友宗麟の名代となった伊東マンショ、同じく正使で大村純忠、有馬晴信の名代となった千々石ミゲル、そして副使である中浦ジュリアン、原マルチノから成る。彼らはこれより三か月前、即ち一五八五年三月にローマ教皇グレゴリウス十三世との謁見を果たし、この時はヴェネツィアに滞在していた。
 ヴァリニャーノの命で、日本滞在時より長年に渡って少年たちの通訳を務めてきたメスキータが、ミゲルの異変に気付かぬはずもなかった。ミゲルはローマへの旅の最中から深く思い悩む表情を見せることが多かった。何を考えているのか、ヴァリニャーノは元より、仲間の少年たちや随行したイエズス会の修道士たちが気を遣って声を掛けることがあっても、その度にミゲルはいつもの優しい笑顔ではぐらかすのだった。
「ミゲルの様子には細心の注意を払うように」
 東インド管区の巡察師の任に就いていたヴァリニャーノは、ローマへの旅に随行することなくインドのゴアに残ったが、彼の後任を務めることになったヌーノ・ロドリゲスの他、メスキータら随行員たちには強く念を押していた。
 メスキータたちはその言いつけを守り続けた。
旅の間に、ミゲルは実に繊細で複雑な青年に育っていた。丸顔の輪郭とは対照的な狭い額に皺を寄せ、彼の眼窩に影が宿るのを同行者たちはよく目撃した。メスキータはミゲルの意志を極力尊重することで、彼が信仰の道から外れぬよう尽力していた。だからこの時も、ミゲルのやりたいようにやらせることが正解なのだと頭から決めつけていたし、ミゲルに最も近しいマンショもその判断に異論はなかった。
メスキータの指示を受け、ゴンドラの船頭はしぶしぶといった体で力強く櫓を水面へとねじ込んでゴンドラの向きを変えた。微かに色褪せた淡く白い壁面が、ヴェネツィアの大水路の両岸に理路整然と続く。ほんの少し前までは、たゆたうように進むゴンドラの上で、その町並みを夢見心地で楽しんでいた少年たちの表情は、今や一様に強張っていた。
ミゲルは一体何を見つけたのか?
他の少年たちの心配を余所に、ゴンドラが岸に接岸するなり、ミゲルは一目散に水路沿いの通りから薄暗く狭い路地の中へと姿を消した。マンショは一人立ち上がると、メスキータに身振りで合図を送り、ミゲルの後を追った。だが見知らぬ町の、見知らぬ裏路地はマンショが想像していた以上に入り組んでいた。一定幅の裏道が実に乱雑に伸びており、いきなり大通りに出たかと思えば、逆に袋小路で行き詰まることもある。建物に日差しを遮られた通路は何か秘密めいており、好奇心よりもそれをうっすらと覆う不安感を余所者に抱かせた。時に建物と建物の隙間をえぐるような下り階段が続き、その途中にもいくつかの横道が伸びている。そこをちらと覗くと、こちらでは細い登り階段が、そしてこちらでは下り階段が、といった具合に外来者を翻弄する。マンショはゴンドラからあまり離れる気になれず、近場を行ったり来たりうろうろしていた。
一方のミゲルは着ていた礼服の裾をなびかせながら、一目散に目的の場所へと向かっていた。その場所は予想よりも遥かに近かった。ゴンドラから見えた小さな路地の袋小路となっていた場所、そこに辿り着くとミゲルは掠れるような小声で声を掛けた。
「おい! おい! 大丈夫か?」
 返事はなかった。使い古した家具や、船具の残骸の積まれた袋小路には腐敗したゴミの臭いが漂っていた。息をするのがためらわれるほどだったが、ミゲルは更に声を掛けた。
「心配いらん。敵じゃなか。おいは切支丹ばい、助けに来たと」
 ミゲルは襞襟の下にぶら下がっていた、銀製の十字架を差し出した。若い声に半ば安心し、半ば警戒感を維持したまま、一人の男が朽ちて積まれた家具の脇からギョロッと血走った目を覗かせた。その眼光の凄まじさに、ミゲルは一瞬たじろいだが、すぐに気を強く持ち直すと、懸命に笑顔を作って見せた。
「怪我をしておるようじゃの、おいが診てやる。何、誰かに追われているようじゃったが、別に突き出したりはせん」
 言い終わるより先に、男は姿を再び隠した。後ろに人の気配を感じたミゲルが振り返ると、二人の男がこちらに走ってくるのが見えた。その奇抜な柄の服装には見覚えがあった。黄色や青、橙色等の派手な色合いの縦縞模様の制服、首元を巻く小さな襞襟、そして頭上には縦に半円状に突き出た飾りのあしらわれた兜。サン・ピエトロ大聖堂にてローマ教皇と謁見した際に見たのだ。その時は、彼らの上半身は甲冑に包まれていたが、今は身軽な制服だけの姿であった。しかしその手には、鋭利な刃先が突端とその脇から突き出た長槍が握られ、腰には鞘に納められた細身の長剣がぶら下がっている。
「Pontificia Cohors Helvetica(スイス傭兵)? ばってん何故、こげん場所に?」
 地理的に産業に乏しいスイスが誇る、当時としては唯一といってもいい輸出品、それがその比類なき強さと武功によりヨーロッパ中を震撼せしめた、彼らスイス傭兵であった。その育成は国策であり、「血の輸出」という言葉すら生まれた。
ミゲルは不信感を隠すように笑顔を作ると、教皇の私兵であるスイス傭兵に向けて身振りで逆の通路の方を指差した。スイス傭兵の一人がミゲルに礼を言って走り出したのを確認すると、ミゲルは「嘘じゃなか。おいは向こうから来たんじゃと教えただけじゃ。耶蘇(イエズス)様も分かって下さる」と呟き、そして今度は男に向かって小さく声を掛けた。
「もう心配なか」
 男はミゲルが自分に救いの手を差し伸べていることを理解すると、ゆっくりと埃にまみれた巨体を見せた。男もまた礼服を着ており一見すると聖職者に見えたが、どこか違和感があった。その礼服は黒一色で、刺繍も飾りも一切見られなかった。帽子は被っておらず、男は髪も口髭も伸ばし放題だった。年齢は五十前後かと思われたが、白人はミゲルたち日本人からすると老けて見えたので、その正確な年齢は判然としなかった。
 その男の怪我はゴンドラの上で目撃した時に想定していた以上だった。長槍で突かれた脇腹からは大量の血が流れ出ていた。その様に眉間に皺を寄せたが、ミゲルは出来る限りの愛嬌を顔に浮かべて男に近付いた。
「思ったより酷い怪我じゃのぅ……。脇を刺されてその面構えじゃと、お主はまるで福音書に記された耶蘇様のようじゃ」
 言葉が通じないことなど気にもせず、ミゲルは親密な口ぶりで語り掛けた。
 だが男は掌をミゲルが近付くのを制すると、首を横に振った。そして立ち止まったミゲルに、男は懐に大事そうに隠していた一冊の冊子(コーデックス)を差し出した。
「何じゃ、これは?」

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