第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み プラチナ・セル

『プラチナ・セル』

佐竹秋緒(さたけ・あきお)43歳
現在、バイオ系施設に勤務。


   1.変事と島岡メモ

 車庫にローバーミニを入れたときから、自宅の様子がいつもと違うことに気づいていた。
 玄関ポーチの灯りがついてたし、リビングの掃き出し窓からも明かりがもれている。オヤジが帰っていたなら車庫にはワーゲンが先に入っているはずだ。
 俺は車のドアを慎重に閉じてから、しばらく玄関口に体を向けて考える。あのクソオヤジが、また俺に断りもなく勝手気ままに一時帰宅か。さては古い研究資料でも取りにきたか。そうだとしたら、なぜ車がない。千ノ宮の駅から徒歩で二十分のこのクソ田舎に、東京暮らしのクソオヤジがのこのこと歩いてやって来る様子は想像できない。
 考えても仕方がないので、とりあえず玄関のドアを横にすべらせる。いまどきレトロな磨りガラスの玄関ドアには、鍵もおりていなかった。
 くっそ。不用心者め。
 リビングに向かってなにか言おうと思ったところ、靴脱ぎに転がっているスニーカーに目がとまった。
「……」
 履きつぶして薄汚れた青いスニーカーが、脱ぎちらかした形のままに片方は横倒しで、もう片方の爪先は俺の方に向いている。オヤジなら革靴のはずだがな。そうじゃなくてもあのインテリ男が、こんな青いスニーカーをはくか?
 玄関先に体を入れてから、俺はなぜか息をひそめた。
 ドアはふつうに開けたから、帰宅の気配はリビングにも伝わったはずだ。オヤジは顔を出さないし声をかけてもこない。
 どうせ狭い間取り、たった二LDKの平屋だ。入ってすぐ、右手のトイレと水まわり。短い廊下の突きあたりに古い建具のドアが一枚、その向こうが八畳ほどのリビングとキッチン。その奥に六畳ばかりの部屋がふたつ並ぶ。
 南向きの六畳をオヤジが倉庫に使い、俺は家賃ただで北向きの六畳を自室に間借りしている。オヤジは年中、東京のワンルームマンションに住まい、離婚して朝倉の籍を抜けた母親は神奈川で再婚した。俺が独立したら賃貸にだそうと考えて建てたらしいこの小さな平屋に、お気楽な一人息子が居残っているわけだ。
 東北一番の経済圏を有する千ノ宮とはいえ、中心地を外れた途端に田畑の広がる田舎町であることが苦にならなければ、スローライフのいい暮らしだ。
 たまにクソオヤジが勝手に戻ってきて二、三日の休養を取りにさえこなければ、ますますいいのだが。
「オヤジ? おい、来てるのかよ」
 短い廊下をずんずん歩きながら、なにやら胃のあたりが騒ぎはじめた。
 なんという感覚なのか、これは。
 動物的アンテナがなんらかの不審を感じているにも係わらず、俺は、頑なに中にいるだろうと思われる人物がオヤジであろうと信じこもうとしている。だっておかしいだろう。どうして身内じゃない人間がひとん家に堂々、上がりこむわけがある。
 玄関でとりあえず靴を脱いだのなら、そいつは強盗であるはずもない。
 ん? そうだな? 強盗は靴を脱がないで家に上がりこむはずだな? しかもスニーカーのサイズはぱっと見て男モノだから、美香でもないし。
「なあ、おい。返事くらい」
 なにかが、おかしいのだ――そう肌で感じながらドアノブをまわしてリビングに入った俺は、どっさりの資料が入ったキャンバスのバッグを、どさどさと床にぶちまけていた。
 リビングの真ん中、三人掛けソファーの中央に、どーんと男の体があった。男はその首を背もたれの向こう側に伸ばし切り、ぶらんと体を投げだしている。あからさまに事切れていると一目で分かる、つまり死体が、俺のソファーを占領している。
 死体がいると認識した途端、全身の血が「かっ!」と音をたてて頭に殺到してきた。ぼんっと心臓が一打ちして、危険事態を察知して血圧が急上昇した。あの黒光りするGが千匹の集団で俺目がけて飛んでくる以上の変事に、目を剥く。
「ぐぅっ、はっ!」
 おかしな具合に喉が鳴り、本能的に後ずさった。背中をドアにぶつけた拍子に腰が抜けた。その場に尻をつく。
 右手で口元を覆っていた。もしやおかしな病原菌にでも晒されはしないだろうかと、そんな自己防衛が働きはじめている。
 なんだこれは。
 誰だ、こいつは。
 眼玉が外れてでていきそうになるぎりぎりのところまで目を開いて、びっしょりの冷や汗を垂らしながら、死体からもう目が離せない。
 観察したくもないのに、隅々まで視線が舐めていく。どうせ医学部棟に行けば死体を眺めるシチュエーションには事欠かないが、ここは自宅だ。ストレッチャーに手足を揃えて乗っていないだけで死体がこうも禍々しいとは!
 死体は――男に違いない。
 頭は背もたれの向こうに伸びているから顔面はここから確認できないが、男だ。身長は自分とそう変わらないように思う。一七〇とちょっと。横幅はかなり細い。死体が病的なほど痩せていることに初めて気づく。
 身なりは小汚い。膝の抜けたジーンズに幅の狭いストライプのTシャツ。秋口の風が寒くなってきたから、襟のついた薄めの黒ジャケットを羽織っている。よれよれだ。
 一瞥して分かったことは、そんなもの。要するに見知らぬ男が一人、自宅の居間で死んでいるのに変わりはなかった。
 震えだしてきた右腕で意味もなく空間をかきながら、資料と一緒に放りだされたスマートフォンを探し求めた。
 警察。
 警察だ。
 おまわりさんに来てもらわなくてはならない。
 非常事態だ。何番だ、非常の際のダイヤルは。思いだせない。どうゆう手順で緊急コールをかけるんだったか、脳の回路がそこに辿りつかない。
 バカな。こんなんじゃ緊急コールは無意味じゃないか! 常日頃から緊急コールをかけ慣れていなければ、咄嗟の反応なんかできないじゃないか。どうなってる!
 その理不尽な怒りのメカニズムが、パニックに陥っていた俺に一筋の光明をもたらしたのは人体の神秘だ。アドレナリンの大量放出が続くなかで、俺の視線が死体の手前のセンターテーブルに注意を向けたのは、その後のすべてを決定づけた運命だった。
 一枚のレポート用紙が横に長いテーブルの中央に置かれている。
 普段の俺はちょいちょい神経質だから、テーブルの上に余計なものがあるのは好まない。紙切れ一枚でもしかるべき場所に収納するのはマイルールだ。
 なにより。
 メモ切れや広告の裏まで、なにかが書かれているかもしれない用箋に、非常な興味を引かれるキモい性質はオヤジ譲りだ。掘りだし物のアドバイスや、走り書きの一行二行のアイディアから生まれるノーベル賞は、ひとしく科学者の夢じゃないか。
 ごくりと喉がなった。俺の興味はテーブルの上にうつる。死体には近づきたくないがレポートはのぞき見したいので、自然と首がまえに伸びた。ぐっと伸ばし切った首で白い用紙をにらむ。長い文章であることが分かったが、この距離では文字まで認識できない。
「くそ」
 汗で濡れてすべる指でスマートフォンのロックを解除しようと格闘しながら、好奇心が猫をトラブルに巻きこむ仕組みで、じりじりとレポート用紙ににじり寄った。この時、うっかりと向こうに倒れた男の顔に視線が泳いでしまった。
 斜め横からそっと見ただけでも、上下がさかさまになった男の死に顔は壮絶だった。
 かっと開けられた目玉は黒く、瞳孔は開ききり、がばっと開いた口から流れている舌はでろりとはみだして鼻の頭をおおっている。
 ふた目と見られぬ異形の相だ。
 赤黒く変色した舌の様子と血走った白目からして、毒物でも飲んだものと思われた。
 毒物――ふいに、冷静になる自分が信じられない。こうまであからさまな服毒死の症状を示しているからには、純度の高い試薬なりを飲まなければムリだ。そしてそんな試薬が手に入る環境はこの日本では限られる。
 医療従事者、もしくは大学の研究職や製薬会社の研究員。医者や化学者、あるいは薬剤関係の……つまり、俺の周辺にごろごろと集う人種ということなのか?
 待てよ。もしやこの死体と顔見知りということはないだろうか……
 恐れを上回ったのは、死体と知り合いなのかもしれない可能性だった。
 しかし待て。もし知り合いだとしたら、それはそれでどうゆう話になるのか。迷惑を顧みずにひと様の家で死ぬとは、恨みつらみか? 俺に? どんな?
 遅まきながら、はっとする。つまるところこの死んでいる男が何者なのか、それは今の俺にとっては相当重要なのではなかろうか。
「お、おい」
 俺は冷静ではなかったようだ。死んだ男に向かって話しかけようとしている。
「なあ、なあってば。あのさ、あんた誰……」
 へっぴり腰でさらに一歩、ソファーに近寄る。死に顔をから目をそむけて、さらに一歩。レポート用紙の文字が認識できる距離まで近づく。
 なにが書かれているのか……ちらりと、横目を使う。
 横書きの長文だ。ワープロ打ち。この男が書いたのか?

――朝倉光星さん

「え」
 その書きだしに自分の名前を発見した俺は、半歩右足をだした姿勢で固まった。レポートを凝視した。どうしてそこに俺の名前があるのか。
 死体の様相と、死体の正体。それに加えて死体が置いて行ったのに違いないだろうレポートには、俺の名前。三つ巴の謎。
 混乱は、頂点に達した。

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