第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 自由の女神

『自由の女神』

遠野有人(とおの・ありと)51歳
1967年生まれ、宮崎県出身。
国立都城高等専門学校建築学科卒業後、現在都内の不動産建設会社員。


 プロローグ あの女

 森久保彰は、国立図書館東京会館の東玄関にいた。
 桜の花を散らすように降っている雨は一行に止む気配はなく、少し肌寒い。まだかと腕時計を見ると、時刻は午後四時を過ぎていた。
 もうすぐあの女がやってくるはずだ。
 森久保がある女性を、彼女と呼ばずにあの女と呼ぶには訳がある。
 毎週土曜日の午後に、あの女が国立図書館にやって来るのに気がついてはや二ヶ月。女を知ったのは、最初に同じ電気工学の本を手に取ったのがきっかけだった。
同じ棚を物色し、本を取ろうとして女に気がついた。電気工学の本棚付近に、若い女性がいるのは珍しい。森久保はさっと女を検分した。
 年齢は二十歳前後。女性は白いセーターに、膝丈の黒いスカートを穿いていた。
 シンプルな服装だが、スタイルは悪くない。高い腰の位置から伸びる脚はタイツを履いていたが、すらりとして伸びやかだった。
 華奢な肩まで伸びた、黒のセミロングの髪をひとすくい右手でとると、毛先をくるくると手遊びしながら視線は本から外さない。身体はリラックスした様子だったが、目は真剣だった。
 顔を見ると、可愛いかった。けっこう好みの顔だ。森久保はそれだけで胸が高鳴った。
 陳腐な歌のようだが、それまでモノクロ色に見えた図書館の風景が、彼女がいる部分だけ鮮やかに色づいていた。こんな気持ちは初めてだ。
 スタイルよし。顔も好み。性格はどうだろうか――。
 ちらりと頭をかすめたが、そんな理由は勝手な男の意見だ。ここは紳士なところを見せねばと、居住まいをなおす。
「お先にどうぞ」
 一応、レディファーストのつもりで森久保は本を譲ると、女は無言で本を取った。一度も森久保を見ない。
 本を手にとるとパラパラとめくり、そのまま席に持っていった。
森久保は取りたい本を譲ったのだ。普通は礼の一言でもあるところだろう。だが、女はまるで森久保に気づかなかったように無反応だった。手に取った本をめくりながら、視線は本しか見ていなかった。
 もしかして、本を譲ったのに気がついていないのか? もしくは僕の声が聞こえなかったのだろうか?
 女は耳が聞こえないのかもしれない。そうだ。きっとそうだ。
 森久保は勝手に思い込み、納得して他の本を取った。
 別の日だった。森久保は国立図書館の電気工学書の本棚を物色していた。
 目当ての本を見付け、手を伸ばして本を取ろうとした瞬間、細くて綺麗な手がさっと本を取っていた。
「その本は……」
「なにか問題でも?」
 森久保が本を持つ手を見ると、先日の女だった。あの時は勝手に耳が聞こえないと思い込んでいたけれど、そんなことはなかった。ぜんぜん聞こえている。
「その本は僕が先に取ろうとしていたのですが……」
「そうなんですか? でも先に手にしたのは私ですけど?」
 女は生意気そうに流し目をして顔を斜め上に少し上げている。形のよい唇をすぼめ、ドヤ顔で言われたが、その顔もめちゃくちゃ可愛い。今すぐ抱きしめたいほど、胸の奥底がざわざわする。森久保の好みの顔だった。
「何か問題でも?」
 トドメの一言を言われ内心ムっとするが、女の話は事実だ。
 今まで口で負けた経験がない森久保を黙らせるなんて、特別な女に思えた。
「そ、それは……」
 何か言い返したくて森久保は喉元まで言葉が出かかるが、結局は何も言えなかった。
 女は何も言い返せない森久保をあざ笑うように片方だけ口角を上げると、まるで意味がわからないとでも小首をかしげ、本を席に持っていった。
 それから同じような場面が、二度続いた。
 決まって土曜日の午後。国立図書館の同じ場所で、必ずと言っていいほど取ろうとする本のかち合わせをする。その度に、森久保は読みたい本をあの女に持って行かれ、悔しい思いをしていた。
 悔しくてたまらないのに、また会いたい。
 最初はムカついてばかりでモンモンとしていたが、気がつくと、常にあの女の事を考えている。
 見ていると、若い女性なのにもかかわらず、女はいつも電気工学書ばかりを読んでいた。しかも読んでいる本は、かなり難易度の高い本だ。
 その上、興味を惹く本は、いつも森久保と被る。
 話せば、もしかしたら話が合うのではないか。性格はきつそうだが、話してみたら案外可愛いところもあるに違いない。電気工学について話のできる女性が恋人なら、どんなにいいことか――。
 考えると、今までのあの女の態度も少しは許せる気がした。
 そうか。僕はあの女を恋人にすればいいのだ。そうすれば、読みたい本がかち合っても気持ちよく譲れるだろうし、お互い本の解釈や感想を意見交換できる。
 その上、恋人も兼ねるのなら、僕の人生ももっと満たされるに違いない。考えると、それが名案に思えた。
 森久保はすぐに実行に移そうと考えた。
 恋人になるには、まず声を掛けてみよう。
 しとしとと降る雨の中、人を想いながら待つものも悪い気分ではないものだな。と森久保が考えていると、あの女が涼しげな顔をして一人で傘を差し、外に出てきた。
 よし。行くぞ。森久保は思いきって女に声を掛けた。
「あの……少しよろしいですか?」
 森久保の頭の中では、何十回もシミュレーションをしていた。
 最初から告白するのは気が引ける。最初に断られたら、そこまでだからな。断れないように周りから固めていこう。
 友達から恋人へと段階を踏むのがいいだろう。まずは声を掛け、お茶に誘い、それとなく連絡先を聞く。ただ、それだけだ。
 それから先は、徐々に会う機会を増やし、会話をする。思えば、女はいつも電気工学の本ばかりを読んでいた。
 森久保は四月から東京大学大学院工学系研究科電気系工学専攻に進学する事が決定している、言わば電気工学の専門家の卵だ。あの女が好みそうな電気工学の話はいくらでもできる。それから会話を重ねて、まずは信頼関係を作る。それから恋人としてお付き合いして欲しいと話をする。
 そうなったらしめたものだ。きっとあの女は僕と話が合うだろうし、断るはずはない。僕は何度も頭の中にトレースした女とのやりとりを実践に移そうと声を掛けようとした矢先、出鼻をくじかれた。
 なんとあの女から質問された。
「何か用ですか?」
 このパターンは予想外だった。今まで何度も同じ本を手に取ろうとして、いつもあの女に先に持って行かれる。まるで僕が視界に入っていないような態度ばかりとるのに、逆に質問されるというのは、僕の存在を認識しているからこそだ。これはよい傾向だ。
 僕は内心、どきまきしながらも、声を振り絞って出した。
「こ、この後、時間があったらお茶でもどうですか? 今日譲った本について話が聞けたらと思って……」
 緊張する中思い切って声を掛けたのはいいが、森久保は今まで女性に自分から声を掛けたり、お茶に誘った経験はまったくなかった。段々と声が尻つぼみになる。怖々と相手の顔を見ると、森久保が予想もしない場面が展開された。 

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