第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み ユリコは一人だけになった

『ユリコは一人だけになった』

貴志祐方(きし・ゆうほう)30歳
1989年生まれ。神戸大学文学部人文学科卒業。塾講師。


 強い向かい風が、平手打ちのように何度も私の頬を叩いていた。
 校舎の屋上、フェンスの外。縁のぎりぎりに立つ私には、その風が私を戒めているように感じられた。自殺なんて馬鹿な真似はよせ。そう訴えかけるために、何度も私の頬を打っているのではないか。そう思われ、決心が少し揺らいだ。
 偶然にも向かい風だったのは、私を押し返して飛び降りさせないためではないか。そう思い始めるともう駄目だ。頭が混乱して、弱気の虫が頭を出してしまう。
 風でスカートが翻り、髪が乱れた。それを直してしまう自分がいる。今から死ぬのなら、スカートや髪の乱れなどどうでもいいというのに、悩んでいるから、綺麗に直してしまう。やはりまだ心が決まっていないのかと、苦いものが口の中に広がった。
 眼下のグラウンドでは、ようやく部活動中の生徒たちが私を見つけたようだった。口々に騒ぎ立て、私を指差して慌てふためく。
 たちまち教師たちがやってきて、思い留まれ、と叫んだ。今からそっちに行くからな、とも。
 ああ、こちらに来られては面倒だ。助けられでもしたら、まだ生きなければならなくなる。この生き地獄のような世界の中で。
 それだけは嫌だーー。そう感じた瞬間、ふと風が止んだ。
 それは、全く予想しなかった変化だった。屋上は凪のように静まり返り、地上の叫び声もなぜか聞こえなくなる。ほとんど無音の、真空のような状態が一瞬訪れた。
 スカートが、髪が、乱れたままぱたりと垂れ下がる。
 まるであの世のような、静謐でいて純粋、現実感の薄い瞬間だった。
ーー私に、死ねと言っているのか。
音のない、まるで私を迎え入れるかのような静けさ。冥界の扉が開いて、私を手招きしているかのようだった。
 ふらりと足が一歩前に出た。そこには、足場はない。何もない。それでも、私はそこを踏み抜くぐらいの勢いで足を差し出した。
 ぐらりと体が傾ぐ。踏み出した足が空振りして、その勢いでもう片方の足が浮く。屋上の縁から、体が離れた。
 私は中空へと投げ出された。重力から自由になり、全身が軽くなる。それと同時に、色々なものから解き放たれた気分がした。
 もう何物にも縛られる必要はない。くだらないルールにも、倫理にも、道徳にも。
私は、自由だ。
 大声で叫びたいほどの感動が、私の胸に押し寄せていた。
 体が屋上を離れ、落下を始めようとした。その時、不意にまた風が息を吹き返した。猛烈な体を打つ風が、空中の私に吹き付ける。
 しかし、その風は今までのものとは違っていた。私を思い留まらせる風ではなく、私を後押しする風だった。
 追い風だったのだ。
 風に背中を押されるように、私は大空に羽ばたいた。背に翼が生えたかのように、体が軽い。風の浮力を最大限に利用し、私は苦しいことも悲しいことも、一切存在しない境地へと旅立った。
 もう苦悩しなくていい。自由だ。
 私は歓喜の声を上げ、涙を流しながら宙を漂う。これで、やっと……。
 私は暫し、忘我の状態で恍惚として空を舞っていた。
ーーだが、その夢のような時間も不意に終わりを迎える。唐突に視界がはっきりしたかと思うと、景色が万華鏡のようにくるくると回り、地面が大きくなってきたのだ。今まで聞こえなかった悲鳴が、風の音が、耳元で大音量で再生される。私の鼓膜は不快に震わされ、現実感が戻ってきた。
 ああ、落ちるのだな。奇妙な諦念と共に私は覚悟を決める。目を閉じ、襲い来る衝撃に身を構えた。
 ほんの一瞬、一瞬の我慢だ。
 闇に包まれた視界の中、私はそう思う。少しだけでいい。少しだけ耐えれば、後は夢の世界へと行けるのだ。
 全身に力を込める。ぐっと拳を握り締め、足を強張らせた。
 悲鳴が一層大きくなる。これ以上の大音量では再生できないだろう、と感じた、その時。
 全身に強烈な衝撃が走り、体中の骨が粉々になったような激痛を味わった。げっ、と思わず声を出すと、口の中から温かいものが流れ出た。鉄の味。血だ。
 耐え難い痛みに脳が悲鳴を上げていた。全身は痙攣したように震え、喉からは意味のない声が漏れ出てくる。
 死ねるのだ、と私は思う。これで、この世からおさらばできる。
 意識は薄れていく。視界はブラックアウトしていき、周囲のざわめきも再び聞こえなくなってきた。
 いいぞ、と内心で手を叩く。これが、待ち望んでいた死だ。
 消えゆく意識の中、周囲の人たちがしつこく私の名を呼んでいた。まるで私を現世に繋ぎに留めるかのように、何度も何度も呼び掛けている。
 おい、ーー。
 おい、ユーー。
 おい、ユリーー。
 ああもう、と私は叫びたくなる。私の名前は、一つだけ。こよなく愛している、美しく、可憐な、最高の名前。
 呼びかける声に、私は血を吐きながら言葉を返した。
ーー私の名前は、ユリコっていうのよ。

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