第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み フィオレンティーノ

『フィオレンティーノ』

平島摂子(ひらしま・せつこ)57歳
1961年生まれ。主婦。


 一
 海が遠ざかって行く。
 もう見えないとわかっていて、それでもジュリアンは振り向かずにはいられなかった。街道はとうに海岸を離れて、内陸へ入っている。当分海を見ることはできないのだ。航海中はあれほど陸の影が見えるのを心待ちにしていたというのに、これからは当分陸の旅が続くといわれると、急に海の色が恋しくなる。
 けれどもその色は一つではなかった――というよりも、いつも異なった色をしていた。生まれ育った大村の海も、神学校から見えた有馬の海も、嵐の中で見た海も、マカオ湾の海も、アフリカ沖の恐ろしい凪の海も、みな違う色をしていた。
 けれど、不思議なことに、どれも海の色には違いないのだ。海がどんなに危険で残忍かを知った今でも、ジュリアンはあの青色にどうしようもなく惹かれてしまう。すっかり海岸から遠ざかっていても、あの青の欠片でも見えないかと、馬車から身を乗り出して振り返ってしまうのだ。
「ジュリアンは、また海を搜しているね」
 くすくす笑いながら、マルティーノが言った。四人の使節の中で最年少の彼は、出発したときには幼児のようだったのに、欧州に上陸する直前あたりから急に背が伸びて、このままだとマンショを追い越しそうだった。ジュリアンやミゲルと並ぶにはもう少し時間がかかりそうだったが、気分はもうすっかり対等で、こうして年上の仲間をからかうようになっていた。
「僕は当分、海はいいや」
とマルティーノの隣に座っていたミゲルが顔をしかめながら呟いた。
「まだ身体が船の上にいるときみたいに揺れて、船酔いがぶり返しそうだ。でも、これからローマまではずっと陸路だし、こんな立派な馬車に乗れるんだから、ありがたいよ」
「でも、すぐローマに行けるわけじゃないんでしょう? 先生方も困っていたけれど」
「トスカーナ大公という方が、どうしても僕たちを歓迎したいんだって。だから、まず大公の宮廷があるピサに行くんだ。
「すばらしい大聖堂と、めずらしい鐘楼がある」
と、マンショが穏やかに微笑みながら言った。
「あ、知ってる。とても高い塔が、斜めに傾いて建っているんでしょう? 神さまのご加護で倒れないんだって、メスキータ先生が言ってたよ」
 マルティーノの言葉に、他の三人は苦笑した。
「何でも神さまのお陰にするのもなあ」
「奇跡は、そう簡単に現れるものじゃないんと思うけど」
「いつまでも、僕らが子どもだと思っておられるんだから」
とひそひそと話していると、
「ヴァリニャーノ先生も、どんなつまらない小さなものにも、神さまは奇跡を宿してくださる、と言われたよ。だから立派な鐘楼は、やっぱり奇跡なんじゃない?」
とマルティーノが真面目な顔で言った。
「うん、そうだね」
と、マンショが言った。ヴァリニャーノ先生の名前を出されると、さすがの彼も、反論できなくなってしまう。本当は、ヴァリニャーノ先生も一緒にローマに行くはずだった。メスキータ先生は善い人だし、良い先生だと思うけれど、ヴァリニャーノ先生に比べると、少し、いやかなり頼りない。インドのゴアで別れてから、何度先生がいてくれたら、と思ったか知れない。
 しかし、宣教師は上司に対して絶対服従を誓っている。ヴァリニャーノ先生は巡察使という、普通の司祭より偉い人だけれど、それでもイエズス会本部からの命令には逆らえないのだった。
「でも、僕らは物見遊山に行くのではないんだからね。珍しいものをいちいち奇跡だ、と騒ぐべきではないと思う」
と、ミゲルが押さえつけるように言ったので、マルティーノは口を結んで、上目遣いに彼を睨んだ。
「ほら、またふくれた」
と、ミゲルが笑った。
 ふくれてない、とマルティーノが尖った声で言い返した。
「その顔をふくれてる、って言うんだよ。鏡を見せてやろうか? そんなにすぐ怒るんじゃ、立派な神父になんかなれないぞ」
 マルティーノが抗議の声でミゲルの名を叫んだので、マンショが落ち着いた調子で、
「ミゲル、それくらいにしておけよ」
とたしなめてから、
「あれは、ひばりの鳴き声じゃないか?」と、マルティーノの気を逸らすようなことを言った。
「え、本当?」
 マルティーノは窓から身を乗り出すようにして、外を眺めた。
 ジュリアンは目が合ったマンショは、黙って微笑んだ。
 マンショは何でもわかっているのだ、とジュリアンは思う。ミゲルが「小さい」マルティーノを可愛くて仕方ないと思っていることも、だからつい、からかってしまうことも、そしてマルティーノが子ども扱いされるのを何よりも嫌っていて、すぐむきになって怒り出すことも、それから旅の疲れが溜まっているときは、軽い口喧嘩がとんでもない言い争いに発展して、お互いを深く傷つけてしまうことがあることも。
 だから、仔猫がじゃれているような、甘噛みの段階で、気を逸らしてしまうのが一番簡単な方法だと、わかっているのだ。

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