第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 模型の家、紙の城

『模型の家、紙の城』

歌明田 敏(かめいだ・びん)56歳
1963年生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経て、現在はフリー編集者。


1 風変りな依頼

 外回りが基本のこの商売にとって、夏の太陽というやつはこの上なく恨めしかった。特に梅雨明け直後の七月半ばのこの時期は、すっかり慣らし運転をこなした新品の内燃機関のように張り切っているのだ。
会議が少ないはずの火曜日の、午前中いっぱいを使った神保町界隈での御用聞きがいつものように不発に終わると、いつものように落胆したおれは水道橋駅から総武線に乗り、新宿駅まで戻って来た。下水臭い地下街のいつもの立ち食い蕎麦屋でかけ蕎麦を掻き込んでから、いつものように徒歩で西新宿へ向かった。
 三年前までなら、新宿副都心一帯に点在する住友不動産ビルを順番に回る、シャトルバスに乗り放題のパスを貸与されていた。しかし今はやむなく返却してしまったため、路線バスに乗る金を節約するためには歩くしかないのだった。
 おれは夏用ジャケットを脱いで肩に掛け、膨れ上がった重たいカバンを左手に持ち直すと、束の間太陽光線を避けるため西口から中央地下道へ入った。動く歩道を遠慮なく使ったが、都庁の脇で容赦なく地上に追い出される。耳を聾するような蝉しぐれの中央公園を突っ切る頃には、全身が汗だくになっていた。しかしこれで一回分のバス代は稼げたのだった。
かつて温泉があったと言われる十二社通りを甲州街道方面に歩き、消防署のある交差点を渡って裏道へ入るとすぐ、コンクリート打ちっ放しの瀟洒なビルが見えてくる。その二階の西側の部屋がおれの個人事務所だった。小ぢんまりした場所ながら家賃は高く、今は毎日のように後悔している。
おれはドアを開けるなり、来月こそは返却しようと思っているレンタル植木を掻き分けて壁のスイッチを探し、電灯を点け、止めてあったエアコンを始動させた。電源は入れっ放しの方が経済的だとよく言われるが、貧乏性なので猛烈に抵抗感がある。カバンとジャケットを応接用ソファの上に放り投げ、窓際のデスクに回り込むと、無理して買ったアーロンチェアに倒れ込んで大きく息を吐いた。
 タバコをやらないおれは、無意識のうちにデスクの上に置いた高級タバコそっくりの濃紺の箱を取り上げていた。表にはキラキラ光る文字で〈Kirifuda〉と印刷されている。中身はなんでもないトランプだ。蓋を開けてカードを取り出し、両手の中でアーチを作りながら混ぜる〝リフル・シャッフル〟や、上から滝のように落とす〝カスケード〟など、手持ち無沙汰の時にはついついやってしまう。
やがてエアコンが効いてきて汗が引いた。サーバーからコーヒーを取ってこようと思い、立ち上がった時だった。玄関のスチールドアにノックの音がした。
おれは怪訝に思った。今日の午後は何の約束も入れていない。いや、入れたくても入らなかったのだ。誰かが来るはずはなかったものの、おれは「どうぞ」とドアに向かって声をかけた。
 小さな軋み音を立てて入ってきたのは、若く可愛らしい女だった。リバイバルなのだろうか、一九五〇年代のような格好をしている。
茶色く染めた髪はポニーテール、頬はペコちゃんのようにピンクで、唇は真っ赤だ。白地に赤の水玉が入ったブラウスに、だぼっと広がった赤いスカート。ピンクのポシェットをたすき掛けにしている。とてもおれの客には見えなかったが、人を見かけで判断してはいけないと小学校で習った。
おれは顔を見栄えのいい角度に向け、営業スマイルを浮かべて言った。「いらっしゃいませ」
「あの……こんにちは」と、女がおどおどした様子で言った。鼻声で、おまけに絵に描いたような舌っ足らずだ。
「どうぞ中へ入ってください。冷気が逃げる」
 女が慌てて入ってドアを閉めた。
おれはデスクを回り込むと女に歩み寄った。「本日はどんなご用向きで?」
「あの……調べて欲しいことがあるんです」
「はいはい、なんなりと」と、おれは揉み手をした。
「実は……カレシのことなんですが」
「は?」おれは訊き返した。「何紙ですか?」
「ウチのカレシが……その浮気というか何というか……」
「カレシって、つまり彼氏のことですか?」
「あ、はい」
「ははあ」と、おれは合点が行った。「何か勘違いしていますね」
女の表情が強張った。「え、勘違いって……」
「お客さん、どこかと間違えてここに入って来たでしょう」
「え……こちらは〈渡辺探偵事務所〉じゃなかったですか? 何でも解決してくれる神探偵さんがいるって聞きましたけど」
「ちょっと違いますね」と、おれは言った。「うちは紙鑑定です」
「かみ……かんてい……?」
「そうです、紙、つまり洋紙や板紙や特殊紙の鑑定をやっています。あとは〝紙商〟、つまり紙の販売代理業ですね」
「それって、どういう……」と、興味を持ったのか女が訊き返した。
 おれは名刺を渡そうとしたが、手にはトランプの束を持ったままで、うっかり〝ハートのA〟のカードを差し出していた。慌てて引っ込めてジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出すと、間伐活用ペーパーを使用したエコ名刺を一枚抜いて女に手渡した。
「渡部紙鑑定事務所、紙鑑定士、紙営業士、渡部圭……」と、女はどんぐり眼を見開いておれの名刺を読み上げた。
「はい。例えば持ち込まれた紙のサンプルを調べて、メーカー、銘柄、米坪、紙厚などを推定します」おれはいつもの営業トークを開始した。「たいていは書籍や紙製品そのものが持ち込まれることが多いですね。私が得意とするのはやはり本です。カバー、オビ、表紙、本文、上製本なら芯ボールもですが、それらのパーツにどんな銘柄の紙が使われているかを鑑定します。場合によっては、ご予算に合わせて、それらに準ずる銘柄をいろいろご提案したりもできます」
おれは左手の壁一面を占める棚を指し示した。そこには、王子製紙、日本製紙、大王製紙、三菱製紙、北越紀州製紙、中越パルプ工業、丸住製紙、五條製紙、日本大昭和板紙の、いわゆる短冊見本帳が、種類・グレード・品質ごとにびっしりと並んでいた。竹尾の洒落たファンシーペーパーのコーナーはひときわ種類が多く、特に場所を占有していた。また、実際に印刷に使用された書籍・雑誌の見本も、コンビニの売り場程度には充実していた。
「は、はあ……」女は棚を眺めて可愛い口をポカンと開けていた。
「それから、各大手紙代理店や製紙メーカーに太いコネクションがありますから、どこの版元のどの書籍や雑誌の明細が知りたいということがあれば、こっそり訊き出すこともできます。もちろん刷り部数まで正確にわかります。版型とページ数がわかれば、納品数量から逆算して部数を弾き出すことができるんですよ。版元が発表する公称部数は二倍、三倍とサバ読んでますから、まったく信用できません」
 そこまで話しておれはハタと思い出した。この客は間違えて入って来たのだった。おれのそそっかしさは死ななきゃ治らない。この粗忽な性格のせいで、これまで何度しくじってきたことか。独立してここ西新宿に事務所を構えたことがその最たるものだった。
「すみません、喋り過ぎた」
「よくわからないけど……なんか凄いんですね」と、女は感心して言った。
「一応、鑑定士ですからね。――ところであなた、どこか余所を探していたんでは?」
「そうなんですけど……足が痛くてもうあまり歩けないんです」女は自分の足の踵を見てから、中腰になってさすった。「午前中ずっと歩いていたので」
「まあ座って」おれは自分の物をどかして応接用ソファを勧めた。自分も向かい側に座る。
「ありがとうございます。ウチ、新宿ってよくわからなくて。――ウチも名刺をあげますね」と、女が透明ケースから一枚抜いてよこした。「美容師やってます」
「どうも」と、おれは受け取った。
そこには〝ヘアサロンミキ スタイリスト 米良杏璃〟とあった。ハサミのイラストが添えられている。住所は埼玉県所沢市だった。
「鑑定士って、他にもいろいろ鑑定できるんですか?」
「いや、とにかく私は紙専門ですからね、いろいろということは――」
「もしかして、こんなのはわかりますか」と、米良杏璃はおれの言葉を遮ると、表面にヒビの入ったスマホを取り出して素早く操作し、差し出した。否も応もない。
 どうせ暇だ。たまには若い女の相手も悪くない。おれは受け取って画面を覗いた。
「おお、これは……」

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