第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み EQ 彷徨う核

石原が首を伸ばして見ると、甲板員の若造が、海面を覗き込んだ姿勢で、何かを叫んでいた。黄色いカッパを着た上半身が左右に揺れ、両腕が海中に垂れたロープをたぐり寄せている。異変に気付いた別の甲板員が二人、すぐに駆け寄って加勢した。
石原はタバコを床に投げ捨て、甲板への階段を駆け降りる。鼓動が激しい。一九〇センチを超える体は昔、けんかには有利だったがここ何年かは、贅肉ばかりが増えている。息が上がったのは運動不足か、恐れのせいか。いや俺が怖がるなんてあり得ないじゃないか。赤竜を指でさすりながら、重い長靴をもどかしい思いで前へ、前へ動かす。
甲板ではちょうど三人が黒いウェットスーツを着た工藤を引き上げていた。ヘッドライトが当たった工藤の体には、力が入ってない。まるで黒い大型クラゲだ。三人が工藤の体をそっと甲板に仰向けに寝かせた。減圧症はないようだが、ゴーグルが外され、人形に使われるガラス玉のような目が宙を向いた。
「おい。大丈夫か」叫んで、工藤の額に、右手を置いた。冷たい。苦い液体が胃の中で渦巻く感覚があった。石原はそのほほを叩いた。
「ないごっか」
 甲板員がタオルで拭いた工藤の口角に、またすぐ白い泡がたまり、唾液で流れ落ちた。「なか」
「どげんしたとよ?」
「荷物がなかど」
「そげんこっはなかどがっ」自分の声が悲鳴に近くなっているのに気付いて、石原は泣き出したくなった。「この十年、荷物はあそこから一センチも動いちょらんかったたっど」
 荷物は腐食進行を抑えるため、もう四十年も前に海底パイプライン型のジュラルミン製「棺桶」の中に入れられた。ちょっとやそっとじゃ動くはずがない。
「なかったっちよ」工藤の口調は乱れた。「海底のポイント周りをわっぜ探したたっどん。ほんのこて消えちょったっが」
「わいや、夜の潜水は久しかぶいち言っちょらんかったけ。潮で流されっせぇ、別のポイントに着いたんじゃなかか?」
「ちごど」
「んにゃ、じゃっちよ」石原は自分と、動揺している様子の周りの甲板員に向けて言った。
「飛行機の残骸はあったから間違いなかど。じゃっどん」工藤がしゃくり上げた。
「じゃっどん、ないな」
「棺桶が壊れちょった。ライトを当ててみっせー、みてみたたっどん、中の荷物はなくなっちょった」もうしっかり開いた工藤の両目から涙があふれ、体が一瞬固まったかと思うと、震え始めた。「どけんすいや。ずっぷい漏れっしもた。おそろしいがよ。助けっくやい」
「写真は撮ったか」
紫の唇が動いた。「撮ったど」
「いっと見せんや」と工藤の腰ベルトに収められていた水中カメラをひったくるように取り、スイッチを入れた。モニターに海底の様子が映される。
荷物は長さ四メーター程度の丸太型で、二重のジュラルミンで守られているはずだ。暗い画像を三枚ほど進めた。
石原の心臓と息が同時に止まった。
ジュラルミン製外殻の棺桶の上部がぽっかりと空いている。本当に棺桶の蓋が開いたみたいに見える。次の画像では、その空白がクローズアップされた。
工藤の言う通りだった。荷物は消えている。
気がつくと、三人の甲板員は後ずさり、工藤と石原から距離を取ろうとしていた。こいつらは感づいている。あの荷物の外殻が壊れることの意味を。石原は小さく舌打ちをしてから怒鳴った。
「わいたちゃ、工藤を医務室に運べ」 
三人は、不満を封じ込めた顔つきで、工藤を担ぎ上げると医務室に向かった。このくたびれたはえ縄漁船では、医務室といっても風邪薬と毛布などが置いてあるだけだ。それでも個室で体を休ませることはできる。
石原は操舵室に駆け上った。
衛星携帯、インマルサットの電波受信状態を確認した。デスクに置かれたパソコンを起動させる。指が震えていた。深呼吸して震えが落ち着くのを待つ。メールソフトが立ち上がった。送信先を選ぶ。緊急連絡用にメモしておいたローマ字を見ながら、アメリカの会社宛てにメッセージを叩いた。
 
The Package is Gone. 

 目の前の状態が何を意味するのか、石原はよく知らない。ただ、右腕の赤竜も確かに震えて見えた。

▽東アフリカ某国

独裁者、ジャンビ・ジャンビ大統領の退陣を求めるデモ隊は、首都南部にある大統領官邸を取り囲んでいた。汚職、縁故主義、民主化弾圧と、この国を歪めてきた悪習の一掃を求めていた。
モスグリーンの制服に身を包んだ兵士たちが、空に銃を向ける。軽い発砲音とともに、白い煙を長いしっぽのようにたなびかせ、黒い物体が放たれた。
着弾した無数の催涙弾が、ガスを吐き出しながら転げ回る。デモ隊は咳き込み、身をかがめて逃げ惑った。盾と棒を持った兵士たちが襲い掛かる。
岸和田康介を乗せたメルセデスは、催涙ガスの煙幕を抜け、大統領宮殿のゲートをくぐった。車内に入り込んだガスで目が痛んだ。宮殿内は手入れされた芝生が青々と広がり、花々が大きな噴水を取り囲む別世界だった。
「ミスター・キシワダ、準備はよろしいですか?」
黒いタキシードを着た運転手は、ちらりと後ろを振り向き、岸和田に声を掛けた。
車が止まり、運転手が車外に出て、ドアを開けた。岸和田は外に足を踏み出した。
今日のインタビュー相手、ジャンビ大統領の秘書官が岸和田を出迎えた。
赤い絨毯が延々と続く大統領執務室への廊下を歩く。岸和田の左足が、途中に置かれているギリシャ風の彫刻に軽くぶつかった。右足は普通の感覚だが、左足が重い。医者の見立てでは、機能は正常で五年前の被弾の後遺症はないという。
体と心、どちらのせいかは知らないが、あの時にイラクで書いた記事が、自分を変えてしまったのは確かだ。記者を続けていいのか。いや、おめおめ生きていていいのか。疑問と記憶は、腹をすかせたネズミのように、頭蓋骨の内側を噛みちぎる。記事のせいで死んだ少年たちは皆十代だった。自分はもう三十八歳。贖罪の術もなく、細々と記者業を続けている。
「大統領がお待ちです」
秘書が重厚な木製の扉を引いた。
小さな体育館ぐらいはありそうな大統領執務室に足を踏み入れると、血走った目が放つ無遠慮な視線が、岸和田を射抜いた。
大統領、ジャンビ・ジャンビだ。
執務室中央のソファーに深く身を沈め、露天肉屋の店頭に並んだ獣肉のような巨体から、濃厚なオーラを放っている。
彼が父親から独裁政権を引き継いでから三十五年がたつ。その年月分、国民から搾り上げた税金や賄賂、さらに日々の苦しみをたっぷり吸い取って、権力と快楽に転化させてきた男だ。
ふだんから「民主主義など欧米人の妄想」「大統領職を引退するのは百年後」と豪語する。
それでも岸和田は彼への嫌悪を腹の底にしまいこんだ。ここで機嫌を損ねてしまっては、ようやく得た単独インタビューの機会を、無駄にしてしまう。
岸和田は愛想笑いを作った。取材のイロハのイ。まずはスマイルだ。
錆びたトタン屋根が並ぶ、庶民の家々からそう遠くない大統領宮殿は、インドのタージマハールと見間違えそうな殿堂で、この貧しい国のどこから、これほどの富をかき集めたのかと感心してしまうほどだ。
インタビューが始まり、岸和田は外資の導入や新空港の建設プロジェクトなど準備していたテーマで、大統領の考えを訊いた。ジャンビは経済発展への熱意を語った。
岸和田は自分の腕時計をちらりと見た。インタビューが始まって、二十分が過ぎている。
重要な質問が残っていた。
その隙を衝くように、ジャンビは自分から話題を振った。

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