第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み EQ 彷徨う核

『EQ 彷徨う核』

澤隆実(さわ・たかみ)56歳
1962年、福島県生まれ。早稲田大学卒業。会社員。


 ▽ プロローグ

一九六九年年七月二十日 人類初の核攻撃から二十四年

深夜の着艦訓練が終わったのは午前二時。艦上攻撃機、A4スカイホークの機体が空母甲板の端から海に向かって動き始めた。
起きるはずのないことが起きていることに気付いたパイロットは、ヘルメットのバイザーを跳ね上げ、ジョン・ルメイに顔を向けた。
大きく見開かれた二つの瞳は恐怖の色を帯び、ルメイを睨む。彼はコクピットの風防を開けようと手を伸ばした。
ルメイはパイロットに真っすぐ視線を返し、A4の前輪に取りついた飛行甲板トラクターを操る仲間に実行を命じた。声は出さない。打ち合わせ通り、人差し指を空母後方の海に動かすだけだ。
トラクターが、A4を一気に押し出す。六トンにも満たない艦上攻撃機としては軽量の機体は、下部を甲板に擦らせただけで、あっけなく落ちた。海面まで二秒もかからなかった。
 強風のせいで、着水音も聞こえない。漆黒の海面が一瞬で銀色の機体を飲み込んだ。
遠くに島の影が浮かぶのが見えた。日本のセンカク・アイランドだ。
ルメイたちがいる場所は、艦橋からは死角になっている。ここにいる仲間たち以外に真相を知るものはいない。機体誘導中の不幸な事故として処理されるだろう。
ルメイは、深い達成感に包まれ、口元がだらしなく緩むのを止められなかった。

 ▽二〇二〇年、久場島沖

 凪の夜。昨日までの春の嵐が嘘のようだ。
石原良太が船長を務める小型のはえ縄漁船は、船体を西南に向けて航行中だった。エンジンは大枚はたいてオーバーホールをしたばかり。暗い海原に向けて機嫌よく回転音を放っている。
奄美大島から長い航海だった。自動操舵にして、しばらく熱中していたスマホのゲームに飽き、目の前のモニターに映された自船の位置を確認した石原は、目的の場所には三十分もあれば、到達できると計算した。
水上レーダーに海上保安庁らしい船影はない。海保も厄介だが、今注意しなくちゃいけないのは、活動が激しくなっている中国の海警局の船だ。新しい海底油田が尖閣の近くで見つかったとかいう、でかいニュースが流れてからは特にひどいらしい。
年に一度の作業は、いつも一時間程度で終わる。この十年間、手順は守られてきた。一回に受け取る報酬は五百万円。そのことを思うと、真面目に漁師をしているのが、ばかばかしくなることがある。
照明を落とした操舵室の小さなライトの光が、石原の右腕を照らした。手首から肘に向けて真っ赤な竜が昇っている。十五年ぐらい昔、鹿児島の天文館で粋がってヤクザの使い走りをしていたころに入れたタトゥーだ。あのとき俺は十八歳。怖い物なんてなかった。
最近じゃサウナに入るのも断られ、スナックで口説き落とした今の彼女と温泉も行けない。二つ年上の彼女は「消せ」「消せ」とうるさいが、踏ん切りがつかない。一年に一回だけだがこの仕事を続ける限り、絶対に必要なお守りだ。今も昔も同じだろ? 俺に怖い物なんてないだろ? 自分に問いかけた。
船は尖閣諸島・久場島の西二〇キロ、魚釣島の北二〇キロで減速、停止した。いつも通り新月の夜で、真っ暗な海面を見渡しても視界に入るものはない。レーダーも船影を捉えていない。薄い緑色のモニターが映す船のGPS位置情報は、きっかり北緯二五・九一二、東経一二三・四四九を指している。「荷物」の真上だ。
石原は操舵室の椅子でタバコを吹かしていた潜水士の工藤信二に「着いたど」と声を掛けた。工藤がのろのろと腰を上げる。まだ半分以上残っているタバコを床に捨てて、足で踏みつぶした。目の前に灰皿がちゃんとあるのに、わざとそうしている。久場島で仕事に入る間際の工藤は、挑発的で機嫌が悪い。いっしょに仕事を始めたころは、毎回腹が立っていた。でも、もう慣れっこになっている。
石原は左手の指を一本立てた。「一時間だ。頼んど」
本当なら高性能の水中ドローンでも使った方が、手間もコストも少なくて済む。今は二百万円も出せばそうした機械が買える時代だからだ。でも例の荷物があるこのエリアは、海底に泥が溜まりやすい。巡視艇やほかの漁船の注意を引かないようにするため、作業は一時間が限度だ。部品の交換作業もあり、人間が潜った方が速くて確実だ。もっとも、手間と危険が伴うからこその高額報酬なのだと石原は分かっていた。
この仕事を請け負って十年が過ぎた。元々はやはり近海漁の漁師だった叔父がやっていた。叔父は病気で死ぬまでに四十年近く続けて来たので、荷物はもう半世紀もここにあることになる。石原はなぜここなのか、なぜ半世紀前なのか知らない。
叔父も石原自身も荷物の中身を正確には教えられていなかった。ただ、それがとても厄介な代物だということは、薄々感じていた。今、石原と船の仲間たちは、荷物がしまってあるあれのことを「棺桶」と呼ぶ。絶対に開けられてはいけない。漏れてはいけないからだ。
水深はおよそ一一〇メートル。もっと南で沈んでいれば、沖縄トラフの深い海底に眠っていたはずだった。
この深さのスキューバダイブは、工藤のような潜水士でなければ務まらない。熟練、しかも欲の強い男だ。それなのに、工藤はいつの間にか仕事を続けるのを嫌がるようになった。
海底の現場を「きもっがわり」と言い出したのだ。仕方がないので、やつにとっては一回五十万円という元々破格の報酬を、八十万円に引き上げた。家を新築したばかりで、ごつい見かけによらず愛妻家の工藤は、渋々ながら継続を約束した。当然だ。危険な深度とはいえ、荷物に異常がないことを確認、充電済みのGPS発信器を古い物と交換するだけであの報酬だ。やめる手はない。
無言のまま甲板に降りた工藤は、さっきと同じ緩慢な動きで、特注の分厚いウェットスーツに耐性ガラスをはめたヘルメットを装着し、大型ボンベを背負った。石原はズボンのポケットからタバコを取り出し、火をつけた。煙と一緒に「はよせんか、馬鹿が」という罵りを、小声で吐き出した。
白い煙が、重い潮風に吹かれて船尾の方向へ流れた。海面は黒い水飴のように光を吸い込んで動きが鈍い。
工藤が左舷から下げられた特製のはしごで水中に入った。補助役の若造が甲板から身を乗り出し海面を覗いている。
奴が浮上して戻るまでは手持ちぶさただ。
石原は周囲に誰もいないことを確かめてから船霊さまの祭壇に、両手を合わせた。
「ふなたまさぁ、ふなたまさぁ。無事、港へ帰らせっくいやいな」右腕の竜が震えているように見えた。祈らずにはいられなかった。
今朝港を出てから、三箱分のハイライトが煙に消えて、薄茶色のフィルターが灰皿の中でミニチュア盆栽のように並んでいる。喉がいがらっぽい。時計を見ると潜水開始から二十分が過ぎていた。海底まではたった二、三分で着く。滞在も二、三分だが、減圧症を避けるためたっぷり時間をかけて浮上する。
潜水開始からおよそ一時間が過ぎた。
甲板で声がする。

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