第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 君の触れざる手は裏切らない

『君の触れざる手は裏切らない』

松山愛流(まつやま・あいる)36歳
1981年生まれ。帝京大学文学部卒業。派遣社員。


エピソード1

 六月六日に雨ザーザーだなんて、誰が言いだしたのだろうか。
毎週のように通い続けるマッサージ店の窓から見える雲は、このままだとドライアイになるんじゃないかってくらい、太陽という瞳孔を大きく見開いている。仕事疲れの体には、その眩しさが少々堪えた。
「また日帰り旅行?」
 惜しげもなしに大きな声で、最近自慢の黒髪ショートヘアーにパーマを充てた女性店員は訊ねる。受付にいる店長は、まもなくの休憩時間が気になるのか壁掛け時計ばかり気にしていた。もう一人の女性店員は、五分前にトイレに駆け込んだきり出てこない。午後三時という時間帯は、休日のアイドルタイムだ。
「今回は名古屋。あんなに長時間働かせるとこで働いといて、はけ口がないとやってけないよ」
「まあ、うちとしては山本さんが来てくれることで商売繁盛するからいいんだけどね」
「真尋さんも、もっと営業トークうまくなれば施術の時間増やしてもいいんだけどなあ」
 真尋さんの手が腰から足に移る。圧力の増した指が、穴の開いたベッド上で息をするのを窮屈にさせた。
「なにそれ。あのね、お店の中では従業員とお客の関係なんですよお。友達なのは、外でだけ」
 真尋さんの尖らせた口を容易に想像できて、背中越しに笑いを誘われた。
「そのわりには、タメ口だけど」
「ホント、あんたにはかなわないわ」
 真尋さんの、諦めにも似たため息は繋がっている証拠でもあった。
 三年前から通い続けた『らくらく』。当時の上司から、腰が悪いならマッサージに行ったほうがいいと言われたのがきっかけだった。一回試すだけのつもりがここまではまったのは、別の理由があるのだけれど。
 真尋さんが俺の担当に初めてなったのは、三回目の施術の時だ。仕事の愚痴を話してすっきりした数時間後、近くのコンビニで一緒になった。焼きプリンを手に取ろうとした時、たまたま真尋さんの手と重なり、お互いにお腹を抱えた。こんなベタなドラマみたいなシチュエーションが本当にあるのかと思い、連絡先を交換する。それが、俺と真尋さんが友達になったきっかけだ。
「俺は、その先の未来を見てる。こんなとこにいていい人間じゃないんだ」
「はいはい、その話は聞き飽きましたよ。でっかい夢があるって言うんでしょ? そのわりには、口ばっかりで体が動いてないみたいですけど」
 うつ伏せから仰向けにと促されて数十分ぶりに見た真尋さんは、頬を膨らませていた。どんなに笑われても、言わなきゃいけない理由があった。内に秘めて夢を追っかけられるほど強くない。
「ひどいなあ。俺は、誰かに宣言しないと気合が入らないタイプなの。何事も有言実行。真尋さんに言ったからには、ビッグにならなきゃいけない存在だと思うんだ」
「言うだけなら、タダだけどね。はい、終わり。ゆっくり起き上がってください」
 一時間の施術はあっという間だ。俺ほど店員と会話が弾んでいる客も珍しいだろう。話している間に終わってしまうのだから、痛みなどほとんど感じたことがない。
「相変わらず、真尋さんの手は気持ちよかったよ」
「そんなに変わる? 技術ややり方は個人差が出るけど、手を褒めてくれるのは山本さんだけだよ」
 真尋さんに言わせると右側が全体的に凝り固まっているようで、肩を揉む力も右のほうが力強い。
「全然違うって。俺、好きな感じの手に出会ったら、興奮しちゃうもん」
「何よそれ。変態じゃん」
「変態で結構。俺、真尋さんの手好きだよ」
「それはどうも。続きは、また食事でもしながら話そうか」
 どうぞと促されて、セルフサービスの水を一杯口に含む。会計で触れた真尋さんの手は、もっと触れていたくなるほど柔らかかった。

 マッサージを終えると、すっかり夕日が顔を覗かせていた。暑いくらいの陽気は変わらず、川崎の歓楽街を歩く人々の八割は半袖だ。カラオケに、ゲームセンターに、ボーリングに、イベントに、ブランドに。どれも俺の興味を惹いてはくれない。
 足を止めるのは、決まってここのコンビニだけだ。いつものように、カゴに二リットルのコーラとステーキ弁当を放り込む。三つのレジがあるが、並ぶ列は最初から決まっている。ポニーテールに髪を結んだ女子大生と思われる子が担当しているレジだ。混んでいる時でもタイミングを計算して、彼女が担当になるように並ぶ。万が一彼女以外に担当されようものなら、家に帰ってからの俺のテンションはだだ下がりだ。決して顔が好きだとか、タイプだからとか、あわよくば付き合いたいとか思っているのではない。彼女の手に触れたいだけだ。
「おい、ねえちゃん。お釣りってもんはな、こぼれ落ちんようにしっかり手を握って渡すもんやろ。どういう教育されてんのや。キモイおっさんの手なんか触れたくないとか思ってんのちゃうやろうな? 仕事なめとんのか」
 一つ前に並んでいたおじさんの声が、何事かとコンビニ客の視線を一点に集める。おろおろしてマニュアル通りの言葉を口にする、女子大生の店員。見ていられないと思っていたときには、すでに口が出ていた。
「おじさん、ちょっと待てよ。かわいそうじゃないか。この子に個人的な恨みでもあるっていうのか」
「なんや、ええかっこしようとでも思っとんのか。この子の彼氏か何かか」
 睨みつけてくるおじさんの息が酒臭い。女子大生の店員は、眉根を下げている。
「……違う。違うけど、この子は何も悪いことしてないよ。たまたまお釣りこぼしたからって、言いがかりもいいとこじゃないか」
「なんやと。これはこの子と二人の問題や。お前みたいなやつが首突っ込んでええことやない」
 額にしわを寄せたおじさんの顔から、目を逸らして怯みそうになる。女子大生の店員が上唇を噛んで視線を送ってくれるのを見て、もう一度立ち向う勇気をもらった。
「そんな考えだから、握ってくれなかったんじゃないですか。俺も彼女の手に触れたことはありますけど、優しさが触感から伝わってきましたよ。おじさんみたいな、汚い心を持つ人に触らせるのはもったいない」
「言わせておけば」
 拳を握ったおじさんの手は、後ろから大柄な男性によって遮られた。女子大生店員と同じ服を着た、四十代くらいの男だ。女子大生店員が呼んでいるのを聞いて、初めてその人がここの店長なんだと知る。
「そこまでにしてください。これ以上騒ぎにすると、通報しますよ」
 毅然たる態度をとった店長に、おじさんは舌打ちを鳴らして店を後にした。一段落してカゴをレジに置くと、女子大生店員は相好を崩した。
「ありがとうございました。なんてお礼を言ったらいいのか」
「いえ、そんな。ちょっと怖かったですけど。それで」
 財布からずっと用意していた連絡先の書いたメモを取り出そうとする。探した末ようやく見つかったところで、コンビニに入ってきた色黒の茶髪男がこちらに向かってきた。男が手を上げると、女子大生店員の視線はそちらに注がれる。
「紗奈、大丈夫だったか」
「明秀! うん、この人が助けてくれて」
「それはどうも。ありがとうございました」
 爽やかな笑顔で頭を下げる男に対し、胸に痛いものが刺さった。きっと、今の俺はうまく笑えていない。会計が終わると、すぐにメモをゴミ箱に丸めて捨てた。もうここに来ることはないかもしれない。俺の好きなあの子の手は、ほかの誰かに汚されてしまっているのだから。

ページ: 1 2 3