第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 鴉の眼

『鴉の眼』

水木玖宣(みずき・ひさのぶ)55歳
1963年、北海道生まれ。高校、大学を札幌で過ごした後、関東の電機メーカーに勤務。


プロローグ

 上野公園の桜は見頃を過ぎ、吹雪のように舞い散った花びらが不忍池の水面に浮かんでいた。花曇りの空が広がる午後、千代田区にある霞ヶ関ビル屋上に設置されたヘリコプター発着場からモスグリーンのブイトール(V/TOL)機が音もなく、ふわりと舞い上がった。
 気密性の高い機内はノイズキャンセラーの効果もあって人間の可聴域では限りなく無音で、恋人同士が甘い言葉を囁き合える静けさだった。最新の水素エンジンも従来タイプに比べ、大幅に消音化されている。カブリオレのようにキャノピーを開けて実際の騒音を風とともに体感してみたいという、子供じみた衝動に駆られる。
 プロトタイプのブイトール機の内部は操縦席二座、後部座席二座の四人乗りで、操縦席の前に一切の物理的な計器は見当たらなかった。その代わりに湾曲したキャノピーの内側にレーザ光を照射し、正面方向には飛行に関する各種情報が拡張現実感技術によって外界の風景に重畳表示されていた。
 数秒後、キャノピーの外は真っ白い世界に包まれた。音声合成の女性の声がステルスモードに切り替わったことと、十秒後に水平飛行に移行することを告げた。飛行モードの変更時、かつての米軍のプロペラ式ブイトール機では不安定状態になり、墜落事故が頻発した。国産初の新型ジェット式ブイトール機では先進的な飛行制御技術のおかげで操縦士が不要になり、ヒューマンエラーに起因する墜落はなくなったものの、航空力学的に不安定領域であることに変わりはない。加えて、今日の上空はスキムミルクのような濃霧のため、視界ゼロだった。
 子供の頃、富士山麓に広がる遊園地で体験した感覚と似ている。ジェットコースターの頂点付近で走り出す直前のような恐怖感と期待感とが綯い交じった感情に襲われた。だが、十秒後、期待していた感覚は襲ってこなかった。
「超高速エレベーターよりも静かで、期待を裏切られたな。アクティベーションで自分用に最適化されているはずだが、感覚と合ってない」
間瀬はわがままで理不尽な不満を口にした。
「ジェットコースターも苦手な私には十分過ぎる加速です」
隣の座席に座っている秘書官の水野は震える声で応じた。
 操縦席のフロントガラス部分には仮想モニター画面が投影されている。そこに三次元レーダーからのリアルタイムデータを元に生成された東京の立体地図がCGで映し出され、あたかも晴天時の実写映像のようだった。今日は濃霧で全く外が見えないため、唯一この明るい映像だけが乗員に安心感を与えてくれた。
 西に飛行進路を変えれば、こんな悪天候でもバーチャルな富士山を拝むことができるだろう。霞ヶ関での仕事に忙殺され、帰宅は深夜だった間瀬は久しく富士山を見ていないことを思い出した。最後に実物を見たのは富士山が世界遺産に登録されたばかりの頃、それも大阪への出張中、新幹線の車窓からだった。
 間瀬の意識とリンクされたオートパイロット・モードのブイトール機は淡々とスカイツリーの頂を旋回した後、筑波山を目指す最短コースを飛行した。眼下には桜が点在する江戸川沿いの首都高上に長い車列が見えるはずだが、大陸から流れてくる粒子状物質による濃霧のために肉眼では何も見えず、モニター画面のCGで確認するだけだ。
「首都高の渋滞のせいで、つくばまで一時間以上かかっていた移動時間が、こいつに乗ればたった十分。便利な世の中になったものだ」
 科学技術の急激な進歩とともに、その恩恵をこの国でいち早く享受できる立場に自分自身が昇りつめたことで、間瀬は優越感に浸っていた。
「加速感ゼロの、『どこでもドア』のような瞬間移動の方が私は好きです」
 隣の座席で四点シートベルトに肢体を縛り付けられ、ダークスーツのタイトスカートから太ももを露わにした水野の声は震えていた。彼女にしてみれば、自分専用の高級な玩具を手に入れて無邪気に喜ぶ間瀬に対するささやかな反抗のつもりなのか、あるいは、気圧の急激な変化によって引き起こされた持病の偏頭痛を紛らわすための戯言なのか。
 霞ヶ関では仕事に関係のない、無駄な会話など一切しない仕事一筋の真面目で優秀な彼女が、真顔でアニメ用語を口にしたのは意外だった。間瀬は手を止め、吹き出すように笑った後、その戯言に付き合うことにした。
「『どこでもドア』の原理はSFに出てくる空間歪曲型ワープと同じと考えられるが、その実現性については疑問符が付く。少なくとも私は信じてない。…とは言っても君はまだ若いし、未来に夢を持つことはいいことだ」
 秘書官とゆっくり戯れる暇もなく、操縦席のモニター画面が筑波山をCG表示し、音声合成の女性が減速と降下への準備を促した。
 時折、雲間雷の光る漆黒の雷雲の中から筑波山が姿を現した。ブイトール機が高度を下げると、筑波山の南西部に広大なサイエンスパーク『JOVE(ジョーヴ)』が眼下に広がった。天気が良ければ碁盤の目のように区切られた道路と芝生の緑が目に映えただろう。水野は筑波山の麓近くに広がるナスカの地上絵のような円形の施設に見覚えがあった。
「あれはJOVEで最初に建設が始められた巨大複合シンクロトロン研究施設『サマー・ナイン』。国内最大級の円周で量子物理学、宇宙物理学上での新発見だけでなく、先進医療、先端工学分野での活用が期待されている。完成は今年の秋頃。…ところで『JOVE』の意味は知っているか?」
「古代ローマ神話の主神『ユーピテル』、英語読みでは『ジュピター』。天空の神で、気象、特に雷を司る神です」
「さすがは局内一の才女だな」
 『サマー・ナイン』の西側には『JOVEドーム』と呼ばれる建物があった。一見、東京ドームのような外観だが柔軟構造物ではなく、近隣国からのミサイル攻撃にも耐え得る強度を確保している。別名『丈夫ドーム』。表向きはあくまでサイエンスパークJOVEのHPCC(ハイ・パフォーマンス・コンピューティング・センター)の位置付けだが、その実態は日本国の防衛上の要所であり、クラスA級の最重要国家機密だった。
 JOVEドームの天頂部の一部がゆっくりと開口し、ブイトール機が吸い込まれていく。仮想モニター画面にエレベーターの立て坑の如く下へと続く細長いピットが見えた。画面上には地面からの高度がデジタル表示されていたが、その値がいつの間にかゼロを超え、マイナスになっていることに水野は気付いた。さらに高度を下げて、ようやく地底に着地した時、高度計の数値はマイナス十メートルを示していた。
 地下基地なのか。水野は工事中のため配管が剥き出しの薄暗い坑道を見回した。

 JOVEドームの施設責任者、山崎センター長は肩で息をしながらブイトール機に駆け寄り、キャノピーの外に降り立つ間瀬と水野を出迎えた。
「いつものように公用車でいらっしゃると思っていましたが」
「渋滞は生理的に嫌いだから」
 強面の中年男が『生理的に』というのが不釣り合いだった。渋滞が嫌いという理由だけで、世の中にまだ五機しかない貴重なジェット型ブイトール機のプロトタイプを霞ヶ関から飛ばしてくるとは。
「このブイトール機はまだテストパイロットによる試験飛行期間中と聞いています。間瀬室長もパイロットの資格をお持ちだったとは存じませんでした」
「資格などない。この機は私の脳でアクティベートされているから、操縦桿を握らずとも私の思い通りに操縦できる。…それに、国交省の若宮の話では、純国産の新型機を今の日本で審査、認証する能力はない。米国に頼むにも、こんな国家機密を海外に出せるはずがない。つまり、この機が日の目を見ることはないということだ」
 ハンカチで額の汗を拭きながら山崎は思い出した。この男には昔から遵法精神が欠如していた。そのうえ、『不安』や『恐怖』という本来、人間にあるべき感情も存在しないようだ。自分なら、保険代わりに人間のパイロットを操縦席に座らせておくのに。
「まだ基礎研究段階のシナプス・リンクによるオートパイロットを試されるとは。いまだに自動運転の車にすら乗らない私には信じられません」
「日本で最先端の計算機環境を持つJOVEドームの責任者とは思えない発言だな」
皮肉たっぷりな間瀬の叱責を気にする余裕はなかった。
 山崎の心配事は墜落の危険だけではない。東京のような人口密集地の上空をプロトタイプのステルス航空機が試験飛行したことが世間に知れたら、どうなる?一昔前に多発した米軍のプロペラ式ブイトール機墜落事故の記憶はまだ完全には風化していない。
 しかし、それは別組織の人間が心配すればいいことで、自分が関知すべきことではない。間瀬が管掌する直属の組織には情報操作を得意とする専門部隊もいる。目撃情報の揉み消しなど造作もないことだろう。たとえ、大都市圏でプロトタイプのステルス機の墜落事故を起こしたとしても、未確認飛行物体か隕石の落下にすり替えられるだけだ。
 それよりも自分が心配すべきは、ドームでの接触事故の方だ。現に今も天頂ハッチを手動操作で開けて、危うく大惨事になるのを免れたが、一秒でも遅れたらと思うと冷や汗が背中を滝のように流れた。
「そもそも、この立て坑は機材搬入専用で、輸送用ヘリがワイヤーで上空から機材を吊り下げるか、自動運転ドローンが使うもの。エントリー・プロトコルを無視した、今回のような乗員専用機の入場は運用規則違反です。見ての通り、安全上の問題もあります」
山崎は配管が剥き出しで走っている立て坑の壁を指差した。
「目障りだな。その運用規則とやらを変更して、通路には赤いカーペットでも敷いてくれたまえ」
 間瀬の冗談交じりの叱責に山崎は何とか堪えた。
 運用ルールの変更要求も、霞ヶ関からわざわざブイトール機のプロトタイプを飛ばしてきたのも、プロジェクトの遅延に対する間瀬の圧力だ。間瀬とは十年来の長い付き合いなので、その性格は知り尽くしていた。彼は恫喝や叱咤とは無縁のタイプだが、その言動はいつも性急で、目的のためなら手段を選ばない、という非情なところがあった。そして山崎には間瀬のいかなる要求に対しても『NO』という選択肢はなかった。
「承知しました。間瀬室長の御指示通りに運用規則を改訂し、立て坑内側にも不燃素材の壁を張り詰めます」
「些細なことだと思わず、完璧を期してくれたまえ。このプロジェクトには長い時間がかかっているから、それ位待つのは誤差の範囲だ」
 その表情に微かな笑みを認めた山崎は、今夜の政府関係者へのお披露目に対する間瀬の期待が大きいことを再認識した。

 中央ピットから、地下に広がる巨大なコンピューター・ルームに沿って建設中の灰色の廊下が続き、その突き当たりに大きな扉があった。扉の前には立ち位置を示す白い足跡があり、山崎が最初にその上に立った。脳内の血管パターンを三次元で一秒以内にスキャンして認証するバイオメトリクス装置が扉の上部に仕組まれていると事前に説明を受けていた。そのために半年前に受診した脳ドックでの検査データを自分の生体データとして認証局に追加登録していたことを水野は思い出した。山崎の後に間瀬が認証を終え、扉の向こう側に消えた。
 次は自分の番だ。もし、ここで認証エラーが出たら。
 だが、水野の不安をよそに認証は何の障害もなく完了し、扉が開いた。
 扉の向こうには全ての音が吸い込まれそうな静寂なドーム空間が広がっていた。JOVEドームの中心部にあるコントロール・ルーム、別名『リベレーション・ルーム』。その小宇宙に水野が長い間求めていたものがある。
 彼女は緊張のために汗ばんだ両手のひらをタイトスカートの裾でそっと拭いた。

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