第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み ア・ドール

『ア・ドール』

斉木円(さいき・えん)56歳
1961年生まれ。神戸大学経済学部卒業。
会社員を経て、現在、非正規の電話オペレーター。


第一部   夢かうつつか

       1.

祐貴

 天井が揺れて見えた。頭の芯がチーズホンデュの材料のようにとろけて行く感覚だった。快楽が満ち潮のごとく、下腹部を浸潤した。
 何かがおかしい。これって、ひょっとして……。津島祐貴はそんな思いに捉われた。
 この女、ペットボトルにクスリを入れやがったな、と頭の隅で考えた。飲みかけのまま、置いてあった炭酸飲料だ。
 うす明かりの下のシングルベッド。祐貴の腰の上で女のすらりとした肉体が上下していた。一糸まとわぬ裸体だ。セミロングの髪が波打ち、女は片手で後ろへ払った。くびれた腰が震え、張りつめた乳房が上下した。厚めの唇から、ああ、と悦びの喘ぎが洩れる。
 女とは今夜限りの関係だった。美咲と名乗ったが、本名かどうかはわからない。自称、二十歳の女子大生。出会い系サイトで知り合った女だ。
 祐貴はそのサイトに登録したまま、無料ポイントも使わぬまま放置していた。三日前の晩、「二十五歳。塗装工」と祐貴の入力したプロフィールを見た、と美咲の方から連絡が入った。サイト経由のメールだ。写メはなし。
「遊ぶのはジュクやブクロ」と美咲は書いていた。祐貴は「おれのアジト、西武新宿から十五分」と返した。その後、すぐに返信はなかったが、「会わない?」と今晩、二回目のメールが入った。
 美咲個人のメアドが添付されていた。用心しているのか、携帯メールではなく、フリーメールだったが。
 そこから、あっという間に事が運んだ。美咲の提案は「割り切り」。つまり一度、セックスして、サヨナラするのはどうか、と言っていた。
ほんとかよ、と思った。想像するだけで、頬や首筋が火照り、下半身が熱くなった。
 祐貴に出会い系サイトを勧めたのは、塗装会社の同僚の信也だった。信也は「セフレなんか夢のまた夢さ。地道にアタックしなきゃ」と諭すような言葉を吐いた。祐貴は一度きりの関係で終わるにしても、「どうだ、おまえとは違うよ」と信也に自慢したくなった。
 美咲は文面の中で、「がっついてないところがステキ」と祐貴を持ちあげた。その直後、現実に引き戻された。「今ちょっと、金欠なの。三万円ほど助けてくれない?」とのメールが届いた。
 祐貴はスマートホンを放り出し、自嘲ぎみに笑うしかなかった。援助というやつだ。女子大生というのが本当なら、こずかい稼ぎに体を売るってことじゃないか。
 まあ、いいさ、と思った。今日は会社帰りにバッティングセンターに寄り、そこを出たところで諏訪と大野に出食わした。嫌な気分になった。大野とはこのアパートの前で口喧嘩もし、むしゃくしゃしていた。少し考えてから、美咲に「一万五千円なら」と返信した。
 美咲は「じゃあ、それでいいけど、新宿まで出て来れる?」とメールして来た。「ホテル代ないよ」と祐貴。「わかった。お互い金欠だから、家まで行ってあげる。一緒にいる友だちが車で送ってくれるっていうから」と美咲。
 それから、四十分後。玄関のチャイムが鳴った。期待はしないでおくつもりだったが、心の高鳴りを覚えながら、ドアを開けた。
 美咲は水色のセーターに花柄のスカートを纏い、ハンドバッグを提げていた。
 エクステしたまつ毛に厚い唇。大人びた艶っぽい瞳を向けながら、あどけない笑顔を浮かべていた。年齢や雰囲気からして、女子大生に見えなくもない。細身だが、スタイルもよかった。おれはツイてる。
 その美咲は今、生まれたままの姿で、「ああ、いい……」と両腿を開き、我を忘れたように祐貴の上で腰を揺すっていた。祐貴の体の芯もかっと熱くなっていた。
 自分が自分でないような、不思議な感覚。神経が異様に研ぎ澄まされている一方、気だるさが全身を支配していた。目の前の光景がドロドロに溶けて行く気がする。白い幻影の亀裂の中に飲み込まれて行きそうになった。これは絶対に、あれだ。
 今から、三十分前のことだった。祐貴はシャワーを浴びるためにユニットバスの前に立った。パーカーを脱いだ時に、ポケットに入っていた紙の箱が零れ落ちた。
 目を引くようなカラフルなデザインのパッケージ。諏訪から今晩、「試してみろよ、ぶっとぶぜ」と無理矢理、ポケットに押し込まれた物だ。大野ならともかく、諏訪には恐くて文句は言えなかった。
 美咲は目を輝かせ、「それ、何?」と訊いて来た。祐貴は動揺を抑えながら、答えをはぐらかして、ゴミ箱に放り込んだ。
 そんな祐貴の態度を見て、美咲は好奇心を募らせたのかもしれない。祐貴がシャワーを浴びている間に取り出し、中身を見たに違いない。植物片についた粉末を溶かして飲み、男にも飲ませたら、どんなセックスになるか、試してみたくなったというわけだ。
 飲みかけのまま置いていた炭酸飲料のボトルに、美咲は粉末を入れた。おれが四年もの間、欲望と闘い、必死でクスリを断って来たことも知らないで。
 手を伸ばし、美咲の首を締めてやりたい気分になったが、怒りの感情はすぐに消えた。善悪の概念は吹っ飛び、判断力は麻痺していた。かつて味わい、経験したことのある全能感が体の内側に満ちて来た。
「ああ、すごい……」祐貴に突き上げられて、美咲は獣のような声を張りあげた。

 眠っていた。意識を失ったのかもしれない。
「帰って!」
 取り乱した女の叫びが突然、耳に届いた。美咲の声だと思い、はっとした。
 瞼を開けようとした。天井の灯りが目に入って、眩しい。
 頭は重く、ぼうっとしていた。起きあがろうとしたものの、体はだるく、動かない。金縛りに遭ったかのようだ。ドラッグの薬効がまだ抜けてないということか。
「金は払うと言っただろ。持ってるなら、渡してくれ」
「いやよ。気が変わったの!」
 これは夢か、現実か。部屋の中で美咲が男と言い争っていた。
 ぼんやりした視界に美咲のセーターの背が映る。すでに衣服は身につけていた。近くに立って、前屈みになっていた。
 両手に何か握っていた。包丁だ。震える刃先を前に突き出している。台所にあった包丁を取って来たのか。
 玄関をあがったところに見知らぬ男が立っていた。それを目にして、胸がざわついた。黒っぽいジャケットを着ている。面長の顔を歪め、キツネのような細い目で睨んでいた。
 男の斜め後ろ、靴脱ぎのところにはもう一人、誰かいた。短髪で、痩せており、メガネをかけている。白いシャツに黒のスキニーパンツ。美咲はこの二人に迫られ、問いつめられているわけか。だったら、助けなければ……。
 手をついて起きあがろうとしてみたものの、体は言うことを聞かなかった。もうろうとして来て、眼前の光景が歪み始めた。
 まずい。白い亀裂が周囲を飲み込み始めた。このまま、気を失ってしまいそうだ。
「アヤナちゃん。話をすれば、済むことよ!」美咲ではない女の切迫した声が響いた。「包丁を降ろしなさい!」
 アヤナ? 誰のことだ? そうか……。
 メガネの短髪が男じゃなく、女だったことにも気がついた。今、叫んだのはそいつだ。そう思った時にはもう、疲労感が全身を覆いつくしていた。
 いけないと思っても、もう瞼を開けている気力すら残っていなかった。意識が混濁し、祐貴は暗い穴の奥底へ落ちて行った。

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