第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み コールド・ソイル

『コールド・ソイル』

澤江晋平(さわえ・しんぺい)53歳
1965年、山口県生まれ。立命館大学卒。現在、広告制作会社代表。


プロローグ 

 一九九八年 十一月十二日――
 北海道旭川市、夕刻、午前中に激しく降った雨は、もうすっかりと止んでいた。学校からの帰宅途中、小学四年生の女児が忽然と姿を消した。彼女の名は立花瑠璃、先月十歳の誕生日を迎えたばかりだった。身長一メートル四十二センチ、うしろに左右に垂らしたお下げ髪、水色の子ども傘を手に、上は白のセーター、下は真っ赤なズボンに黄色のレインブーツを履いていた。そんな琉璃の姿は、学校近くのコンビニでお菓子を買っているところを監視カメラに撮られたのを最後に、行方がわからなくなった。
 事件当日、自然カメラマンの父親、立花満は東京の登山雑誌からの仕事を請け、数日をかけて、石狩川と忠別川の上流部にそびえる旭岳連峰を登山しながら撮影にでかけていた。母親の恵子は二人の子供たちを見送ってから、午前中は絵画の作品作りに没頭し、午後からは公団住宅の自宅で絵画教室を開いていた。午後十八時、小学二年生の八歳になる妹の澪はすでに家に戻っていたが、琉璃の姿はなかったため、教室を終えた恵子は近所を回って探し始めたが見つからず、警察に届けたのだ。
 捜索はまず地元の警察によって行われたが、彼女を見つけることができなかった。翌朝、学校から数百メートル先の道路で血痕が発見された。家への帰宅途中で自動車事故に遭い、そのまま連れ去れてしまったのか。時間が経つにつれ、恵子は焦燥に駆られ、やがて半狂乱になった。瑠璃は小児喘息だった。喘息は毎日、吸入ステロイド薬で予防しなければ、発作が起きてしまうからだ。もし、そうなったとき、適切な対処がなされなければ、喘息死するかもしれない、と。
 三年前、立花家は家族四人で東京から旭川市に移住した。自然カメラマンの父と画家を志していた母にとって北海道北部の圧倒的な大自然は、気温の温度差が五十度にもなる厳格な環境だったが、ハクチョウにタンチョウ、シマフクロウといった野鳥からキタキツネやエゾシカ、エゾリスなどの野生動物たちと共存するこの大自然に囲まれた生活は、夫婦にとって長年の憧れだった。北海道北部の圧倒的な大自然の中で子供たちを育てる。なんて素晴らしいことだろう。それがまさかこんなことになろうとは――
 翌朝、北海道警による本格的な捜索がはじまると、豊富町の国道四十号線で少量の血液が付着した黄色のレインブーツの片方が発見された。DNA鑑定の結果、瑠璃のものであることがわかった。そこは旭川市から二百キロも北東に離れた「サロベツ原野」と呼ばれる湿原地の中を走る国道の路肩だった。すぐ傍の海岸からは利尻山がうかがえ、隣の稚内市では宗谷海峡を隔てた向こうに、晴れた日ならロシア連邦のサハリン島の姿を捉えることができた。
 警察発表によると瑠璃は通学路で車に轢かれ、そのまま車で北東部の豊富町の国道まで連れ去られた可能性が高いというものだった。すぐに周辺の湿地帯に数百人体制の捜索隊が入り、数日間にわたって大掛かりな捜索が行われたが、本人の生存確認も他の彼女の持ち物さえも何も発見できなかった。シベリア高気圧による寒波が到来し、粉雪が散らつくなか、ぬかるんだ沼炭地の足場が、捜索の進展を阻んだ。新聞やテレビでは、旭川市までにテレビカメラを抱えたマスコミが押し寄せて、「旭川女児連れ去り事件」あるいは「立花琉璃ちゃん行方不明事件」として連日のように報道された。だが、幼い彼女の生存を伝えることはできなかった。
 一週間後、捜査線上に二十八歳の精肉店の従業員の名前が挙がった。瑠璃が行方不明になる直前、この従業員と話しているのを見たという複数の目撃情報があったからだ。しかも男には三度の児童虐待歴があったため、すぐに警察は精肉店の男を参考人として任意同行した。だが、取り調べをしたが自白もなく、彼が所有する車に女児のDNAや血液の痕跡が発見されなかったため、証拠不十分とし、身柄の拘束を解いたのだった。
 当時、この「旭川女児連れ去り事件」は、新聞、テレビ、週刊誌といったマスコミがこぞって報道した。女児のレインシューズが発見された「サロベツ原野」を縦断する国道の上空には、数週間にも渡って複数の報道ヘリコプターが飛び交っていた。マスコミの憶測による身勝手な記事も数多く出回った。中でも被害者であったはずの母親、恵子への中傷はすさまじいものがあった。当時、画家としても活動をしていた彼女は、自分の夢をあきらめきれずに、子どもを育児放棄していたのではないかという誹謗や美大時代の同級生との不倫関係にあったなどという報道も流されたのだ。
 そんな謂れのない誹謗中傷によって、さらに苦しめられることになった立花夫妻の関係はついに崩壊し、翌年には離婚することになった。妻の恵子は「立花」から、元の名字「水本」を名乗ることなった。それでも彼女はこの街から離れようとしなかった。琉璃が帰って来たときに、もし家がなかったら可哀そうだとでもいうのが理由だ。

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