第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 殺戮図式

『殺戮図式』

猫吉(ねこきち)65歳
1952年生まれ。中京大学法学部卒。様々な職業を経て現在自営業。


 第一章 作図

 平成十二年 九月八日(金)植田ツネ(71)無職

 植田ツネは可燃ゴミの袋を片手に集積場所に向かった。
 朝の五時半、そろそろ日が昇る時間だ。
 もう九月だというのに、アスファルトから今日も暑くなりそうな熱気を感じる。
 ツネは古いアパートで、長らく一人暮らしをしている。七十歳を過ぎているが、足腰はしっかりとしていた。最近は左耳が遠くなったが、生活に不自由するほどではない。
 趣味ではじめた水彩画だけが楽しみという、どこにでもいそうな老女だ。
 集積場にはゴミ袋が一つ、放り出したように置かれていた。深夜に誰かが出したのだろう。早く出すと野良猫やカラスがエサを漁ったりするため禁止されているのだが。
 ゴミ袋に近づくと、ツネは腰をかがめて様子を見たが、被害にあった形跡はない。
 ツネは自分のゴミ袋を横に置き、二つのゴミ袋をきれいに揃えた。几帳面な性格なので、乱雑に置かれていると気になるのだ。
 名古屋市では最近、ゴミの分別がはじまり、出し方が細かく指定されている。
 分別がはじまった当初は、間違える人間が多かったのだが、今ではそうしたことは少なくなっていた。
 部屋に入ったツネは首をかしげた。誰かが訪ねてきたような気配があり、出かける前とは部屋の空気が違っているように感じる。
 ゴミ出しに出かける時にいちいち鍵を掛けたりはしない。回覧板でも回ってきたのかと、ドア付近を眺め回したがなにもない。
 空き巣かなと不安になり胸に手をやったが、こんな貧乏な婆さんのところに入るわけもないと思い直す。
 ドアを閉めてから、かけっぱなしにしているラジオの前に座った。テレビのニュースが始まる前までは、ラジオのおしゃべりを聞くのがツネの楽しみになっている。
 流れてくる音楽は、ツネの好きな歌謡曲ではなく、うるさいだけのなんとか娘とかいうものだった。もっと老人のことも考えてくれればいいのにと、思わず愚痴が出る。
 背後で物音がした。振り返ろうとした瞬間、首に何かが巻き付くのを感じた。それは急速に首を締め上げ、ツネが首に手をやった時にはすでにどうしようもなくなっていた。
 どうして私がこんな目にと思いながら、ツネはそのわけを知ることもなく生涯を終えた。

 殺人者はしばらく息を潜めるようにして、あたりの様子を窺った。ツネが完全に死んだことを確かめるために、小さな手鏡を出して鼻と口に当て、曇らないことを確認した。以前見たテレビドラマでそんなことをやっていたのを覚えていたからだ。
 それから、将棋の駒を二枚取り出して、一枚をツネの手に握らせる。あと一枚はスラックスのポケットに入れた。
 すぐにでも逃げ出したかったが、深呼吸をして自分を落ち着かせる。
 なにか見落としたものがないか、頭の中で点検をした。手袋はしている。髪の毛が落ちないようにニット帽をかぶり、足には二重に靴下をはいている。心の中で自分に言い聞かせるように「大丈夫だ」とつぶやいた。
 ゆっくりとツネの首に巻き付いた絞殺具を外す。それをポケットにしまった。
 ドアに近づき、廊下の様子を見ながら、聞き耳を立てる。
 朝の六時だ。だれも起きてはいないだろう。部屋を出ようとしてから、ラジオが鳴っていることに気がついた。
 どうしよう、消すべきだろうか、それともそのまま鳴らしっぱなしにするべきか。
 近所迷惑になるほどの音量ではないし、いつもかけているのだろうから、そのままにしておいたほうがいいだろうと判断した。
 静かにドアを閉め、このアパートの住民のようにさりげなく歩く。
 誰にもあわずに、大きな通りに出た。
 駅の駐輪場に駐めておいた自転車をひきだしてから、ペダルを踏み込んだ。
 ポケットに入れた凶器を手のひらで確かめるように触ってから、これを処分すること、と心の中にメモをした。
 絞殺具は子供用に作られたビニール製の縄跳びだ。それを使いやすいように短くした。両側に取っ手が付いているから、締めるには使い勝手がよい。
 捨てたところで百円ショップで大量に売っているものだ。その度に買い直せばいいだろう。
 これは可燃ゴミなのか、それとも不燃ゴミなのだろうか、そんな疑問が浮かんできた。帰ってから忘れずに分別早見表を見ること。心のメモに追加した。
 殺害した人間のことは特に気にならなかった。あれはこれから創る壮大な作品の一部に過ぎない。
 そんなことよりも、二年間待ち望んでいた、この日が来たことが嬉しかった。
 自転車をこぎながら、鼻歌が出たほどだ。体調もすこぶる良く、古傷を抱えた膝も痛まない。
 殺人者の姿はいつしか、朝の通勤風景に紛れ込んでいった。

 次の日、土曜日の午後三時。ツネの部屋を訪ねた人間がいた。老人会でツネと同じ水彩画のサークルに入っている老婆だ。
 ノックをしても、声をかけても返事がない。
 ドアノブを回すと、鍵がかかっていないのか、ドアが開いた。
「ツネさん、おらんのきゃ?」声を出してから、部屋を覗いた。ラジオの音が聞こえてくる。
 もしかしたら、病気で寝込んでいるのでは、そんな事を考えた老婆は、靴を脱いで部屋に上がり込んだ。
 居間でツネが倒れているのが見えた。あたりには悪臭が漂っている。思わず鼻に手をやったが、それよりもツネの様子が変だ。
 コタツ兼用のテーブルにうつぶせになっているツネを抱き上げた老婆は、思わず悲鳴を上げた。
 見た瞬間に死んでいると分かったからだ。体は冷たくなっていて、体温が感じられない。顔には苦悶のあとが残っている。
「大変だぎゃ、死んでまってるがね」
 老婆は大声を上げると、玄関に向かった。あわてたために靴を履かずに表に出た。しばらく走ってから、それに気がついた。
 靴を取りに戻るのが怖くなり、靴下だけの姿で公衆電話を探した。
 昔はどこにでもあった公衆電話だが、今では探してもなかなか見つからない。
 ちょうど通りかかったジャージ姿の女子学生に助けを求めた。
「あんた、携帯持ってたら、警察に電話してちょ。婆さんが死んでるんだわ」
 いきなり話しかけてきた老婆に驚いたのか、不審げな表情を浮かべた学生だったが、話を聞いて、すぐにポケットから携帯電話を取り出した。
 警察に電話をしている学生を横目にして、安心感からか老婆はその場に座り込んだ。
「警察が現場はどこなのか? って訊いてますけど」
「ほら、すぐそこにある丸山アパートだぎゃ、わからなんだら、ここに来てもらえば、案内したるがね」
 老婆は答えながら、立ち上がった。足元を見て、自分が靴下だけだったのを思い出して、恥ずかしくなった。
 学生は指令センターの係官から自分のいる場所を訊かれたが、分からないのか、うろうろと周辺を見回した。すぐに係官の指示で近くにある電柱に表示されている町名と電柱番号を読み上げた。
 指令センターでは電柱に書かれている管理番号で、その場所が分かるようになっている。

 一一○通報を受理した愛知県警察本部通信司令室は事件発生地を管轄する港南署に連絡した。
 すぐに所轄の捜査員・鑑識は現場に急行する。
 それと同時に県下各署に事件手配を行い、緊急配備を指令した。県警本部の刑事部捜査第一課の捜査員、機動捜査隊も派遣され、初動捜査が開始された。

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