第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み グレートクリムゾン

『グレートクリムゾン』

木幡泰昇(こはた・よしのり)59歳
1959年生まれ。北海道広尾郡広尾町出身。
帯広工業高校土木科卒業後、土木関係の仕事に従事。
2004年に北海学園大学法学部二部入学。卒業後、土木関係の仕事を経て、現在無職。


 第二次世界大戦後、資本主義社会(西側)と共産主義社会(東側)は、冷戦という新たな戦いをはじめ、西側であるアメリカにとって沖縄は、極東戦略上、重要な位置を占める場となった。以後、西太平洋における共産圏封じ込めの重要拠点として、軍事基地沖縄は大きな意味を持つことになる。
 戦勝国アメリカにとって、沖縄の基地を自由に使えることは安全保障上の絶対条件であり、沖縄の施政権をアメリカが獲得することは、戦略上、欠くことのできない既定路線でもあった。
 一九六五年、アメリカはベトナム戦争に本格的に介入。共産化ドミノの阻止を命題とした戦いは激化の一途をたどり、沖縄は前線基地として、その重要度を増していった。しかし、基地の強化とともに米軍・米兵がひき起こす事件・事故も激増。高まる反戦運動のさなか米軍は、「本土をも含む基地の存続すら難しい」局面に立たされていった。
 そんな中、沖縄市民の怒りは、反基地から「日本への復帰」と急激な高まりを見せ、沖縄統治が困難な状況に直面しつつあることを、米政府は認識するようになる。
 一九六九年一月に発足した米新政権にとって沖縄の基地問題は、終わりの見えないベトナム戦争と相まって、最大の政治課題となっていた。
 米軍の日本駐留を認めた日米安全保障条約の期限切れを一年後に控えた一九六九年後半、ベトナム戦争に反対する運動は世界的なうねりとなり、「沖縄に施政権を返還しなければ、米軍は日本で基地を維持できない」と、米政府内での意見は一致する。問題は「その時期」であり、返還後も「基地の自由使用をいかに確保するか」であった。
 一方、日本国内においても、悲願である沖縄返還に向けて日本政府は米政府と水面下での交渉を継続、「すでに返還は既定路線」と、その情勢は固まりつつあった。
 日本にとっても「沖縄は西太平洋の要石(かなめいし)」という戦略上の重要拠点といった認識はアメリカと一致しており、日本政府にとっての問題は、「いかに早く」「いかに都合よく基地を存続させるか」にあった。そして、その点がアメリカとの思惑の違いでもあった。
 一九六九年十一月十九日、ワシントンにおいて三日間に及ぶ日米首脳会談が予定された。それは文字通り、沖縄の未来を決める、重要な会談であった。

   一

 二〇一七年 四月
 雪のちらつく鉛色の雲、はるか彼方にまで広がる黒いオホーツク海。その二つが、視界のほとんどを占めていた。左手に広がる車窓の景色を見つめ、本條勇人(ほんじょう・はやと)は小さくため息をついた。モノトーンの荒涼とした風景が何とも暗い気分にさせ、思わず出た吐息だった。
 北海道の東の果て、という寒冷地ではあるが、四月下旬にここで雪が降るというのは、本條にしても予想だにしない冷え込みだった。
 例年、五月のゴールデンウイーク時期は、スタッドレスタイヤから夏タイヤに交換するのが北海道のドライバーの年中行事になっている。朝六時に釧路を出発して、ここ野付半島を目指した本條だったが、その道中は真冬を思わせる降雪となり、いつも以上に緊張を強いられるドライブとなった。
 ツアーは本当に開催されるのだろうか? 何度もそう思いながらハンドルを握って二時間、半島に近づくにつれて雪は止み、不安は杞憂に変わった。
 本條は左手で口を覆い、気づかれないよう大きな欠伸をした。それは、ドライブの緊張と、ツアー中止の不安から解放された、安堵の欠伸でもあった。
「あいにくの天気ですね」
 運転するツアースタッフの日野知世(ひの・ともよ)が、フロントグラスを見上げ、言った。ショートヘアーの似合う小柄な知世は、笑うと二本の前歯がのぞく童顔で、リスを連想させた。
「でも、雪はちらつく程度で、回復に向かっているみたいですよ」
「ええ」本條の言葉に、知世は頷いた。
 本條は首から下げたカメラで車窓の景色を数枚撮り、足元のリュックから資料を取り出した。B4二枚のその資料には、『野付半島自然保護センター主催 北方領土遺跡ツアー』の表題がある。今朝九時三十分から開催された同ツアーの参加者に配られたものだ。
 オホーツク海に突き出た野付半島は、知床半島と根室半島のちょうど中間に位置し、延長約二十六キロという日本最大の砂嘴(さし)(海に細長く突き出た地形。沿岸流によって運ばれた砂礫が堆積して形成される)として知られている鉤状の半島だ。
 江戸時代末期の一七九九年、幕府はその半島先端部に国後島へ渡る中継点として野付通行屋を設置、周辺には下宿所や蔵が建てられた。さらに、半島の外海がニシンの好漁場であったことから、周辺には五、六十軒の番屋が立ち並び、当時半島は、辺境の地とは思えない賑わいを見せていた。その地は現在『野付通行屋遺跡』と命名され、十二年前から本格的な発掘調査が行われている。
 半島は一九六二年『野付風連(のつけふうれん)道立自然公園』の指定を受け、二〇〇五年には湿原保護を目的とした『ラムサール条約』にも登録、多くの場所で入場が制限されている。そのため、通行屋遺跡にも簡単には近づくことができない。年に一度、このツアーだけが、遺跡を見学できる唯一の機会なのだ。
 植生にダメージを与えない雪解け間際に開催されるこのツアーは、定員四十人と少ないこともあって、すぐに予約がいっぱいになる。半島は野鳥の楽園としても知られており、多くのバードウオッチャーが憧れる自然豊かな場所でもあった。そうした自然を愛する人たちにとっても、同ツアーは人気だった。
 遺跡周辺は背の高い湿地性植物に覆われており、雪解けの今時期でなければ、とても歩いて近づくことはできない。まだ草が枯れている今だからこそ遠望ができ、ツアーが可能なのだ。もちろん、自然保護という点からいっても、歩けるのは今しかなかった。
 遺跡といっても、二、三の墓石は目を引くが、あとは、畑の畝と思われる起伏や当時のゴミ捨て場から出土した食器が生活の痕跡をとどめる、といった地味なものであり、派手さはまったくない。ツアー客の興味は、普段立ち入ることができない場所に入れる、といった好奇心の方が大きいのかもしれないな。本條はざらつく顎を撫で、ひとり思った。
 年に一度しかない遺跡ツアーは、いい地域ネタになる。半島が北方領土との交易の最先端であったという歴史は、ちかごろ何かと話題になる領土問題も含め、それなりに興味を引くものでもある。本條は心で呟き、遠くの水平線に目を細めた。
 本條はそれを取材するために参加した、釧路タイムスの新聞記者だった。四十八歳になる本條は、釧路本社の社会部に席を置く記者歴二十五年のベテランだ。とはいえ、他の同期は長や委員といった肩書が多くなる中、明らかに出世街道から外れたところを歩いている遊軍記者だった。
 遊軍というと、取材慣れした記者が自由に事件を追うベテランの領域、という印象だが、本條に限った場合、それは『自由に事件を追う』というより、支局の記者不足を補う補助要員、といった方が、はるかに的を射ていた。
 実際、今回の取材も中標津支局が担当する手筈になっていたのだが、昨夜、中標津町内で殺人事件が発生したことから、支局員は総出でそちらを取材することとなり、急遽本條が担当することになったのだ。ちなみに殺人事件の方には、本社社会部からも二人が応援に駆け付けていた。
 本條としては、何とも納得のいかない応援取材ではあったが、一歳年上の社会部デスクに楯突けるはずもなく、こうして、黒いオホーツク海を眺めることになったのだった。
 これはこれでのんびりでき、かえって良かったかもしれない……。本條は負け惜しみとも本音ともつかぬ言葉を心で呟き、欠伸を噛み殺した。
 車は『立ち入り禁止』と書かれたゲートの前で止まった。ここから先は砂利道になっていて、一般の車両は進入禁止となっている。
「ゲートを開けてきます」知世は言い、車から降りた。
 本條も車を降り、知世がゲートを開けるのを手伝った。ゲートには大きな南京錠がしてあり、それを外して両側に開く仕組みになっている。二人は左右に分かれ、ストッパーの金具を下ろして扉を固定した。後続の車は、少し遅れてやって来る。本條と知世は、安全確認を兼ねて先陣を切ったのだ。
 本條は、荒涼とした原野を真っ二つに切り裂く砂利道をカメラに収め、車に乗り込んだ。
「ここから先は、初めてです」本條が言った。
「そうなんですか?」
「ええ。野付に来たのも、十年振りですよ」
 本條は興味深そうに辺りを見渡し、カメラを向けた。
「中標津にいたことは、ないんですか?」
 知世には自分が担当することになった経緯を説明してある。早朝に、担当するはずだった記者の舞花(まいか)からも連絡を受けたと話しており、突然の交代に戸惑うことはなかった。
 和泉(いずみ)舞花は中標津支局に勤務する入社二年目の記者だ。入社後すぐに支局へ配属され、二人いる先輩記者の指導のもと経験を積んでいる。ハイジャンパーを想わせる長身の舞花はポニーテールがトレードマークで、クリクリと動く大きな目が印象的な美形だった。
『女とは思えない粘り強い取材をする』と、先輩記者からの評判も良く、その実力がただ者でないことは、今、本條がいる場所からも証明されている。
 本條は、自分の位置をあらためて認識し、小さくため息をついた。

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