第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み セリヌンティウス殺人事件

『セリヌンティウス殺人事件』

小塚原旬(こづかはら・しゅん)42歳
1975年。会社員。


序章

 その時のメロスの激昂はかつてないほどであった。
 暴君ディオニスとの約束を守るために、三日ぶりにシラクスの市へと戻って来たメロスを待っていたのは、にわかに信じがたい不義と訃報であった。
「ああ、メロス様。走るのをお止め下さい」
 死に物狂いで王の元へと走っていくメロスに、若い男がすがるように駆け寄って声を掛けてきた。
「誰だ」
「あなたのお友達のセリヌンティウス様の弟子、フィロストラトスです。もう駄目でございます、無駄でございます。走るのをお止め下さい。もう、セリヌンティウス様をお助けになることは出来ません」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「王と交わしたお約束のことでしたら、もう無効でございます。何の意味もなくなってしまったのです」
「馬鹿なことを言うな。私は必ずセリヌンティウスを助ける」
「そうではないのです。セリヌンティウス様は既に亡くなられました」
 突然、冷や水をかけられたようにメロスは足を止めた。聞かされた言葉の意味が理解できずに、数回瞬きを繰り返してから、ようやくフィロストラトスの方へと顔を向けた。
「何だって」
「お亡くなりになったのです。あなたが村にお帰りになった夜に、獄中で」
「王の仕業か!」
 激昂したメロスの目は血走り、おどおどするフィロストラトスの肩を両手で鷲づかみにした。
「いえ、そうではありません。王がセリヌンティウス様を処刑したわけではありません。セリヌンティウス様は、繋がれていた牢の中で、何者かの凶刃に倒れたのです」
「何者がそのような非道を!」
 メロスの声が怒りで荒ぶる。
「まだ分かってはおりませんが、一番に疑われているのは──」
 フィロストラトスの言葉が終わらぬ内に、シラクスの市を巡回する衛兵たちの声が辺りに響いた。
「あの男だ、間違いない。すぐに捕らえろ!」
「これは一体、何の真似だ」
 メロスはたちまち三人の兵士に組み伏された。三人もの山賊をたった一人で打ち倒した勇者も、疲労困憊の極みに達して抗う力もか弱かった。何よりメロスの力を奪ったのはセリヌンティウスの死という事実であった。
 無二の親友を失い、人の信実を証明する為の約束は蹂躙され、人殺しの罪を着せられたメロスの慟哭がシラクスの市に響き渡った。

一章  アテナイから来た教導者(パイダゴーゴス)


 シケリア島(現在のシチリア島)の東端に位置するアイトナ(エトナ)火山は、古来より噴火を繰り返し、常に噴煙を巻き上げている。その由来については神話にも数多く語られて来た。神々の武器を作った鍛冶の神ヘーパイストスの炉であるとか、ゼウスに敗れた怪物テューポーンが封印されているとか、風の神アイオロスがその山の洞穴に風を封じているだとか、女神アテナにシケリア島を投げつけられ、その下敷きとなった巨人エンケラドスがその痛みでアイトナが噴火する、などなど枚挙に暇がない。
 活火山のため、標高はその時々によって変わり、現代では3330メートル程だと報告されている。地中海の中心にそびえるその雄大な姿は、古代ギリシアの時代、或いはそれより遥か以前より人々の関心と興味を掻き立て、多くの来訪者を迎えた。
 紀元前388年夏、地中海を渡って来たアリストクレスもその一人だった。
そのぶ厚い胸板と肩幅は、彼が武勇において優れていることを雄弁に物語っていた。顔の輪郭は角張った顎と頬骨によって岩石の固さを想起させ、毛質の固い短く切り揃えられた髪は峻厳な山脈の険しさを思わせた。だがそれ以上に会う人の視線を引き付けたのは、彼の理知的な眼であった。灰色に澄んだ瞳には、人のまだ知らぬ何かを見通しているような深みがあった。また彼にはどこか親しみやすい柔和さがあった。口元を覆う髭から垣間見られる笑みには、人の警戒心を解く魔術のような力があった。そのためか、彼の周りには常に人が集まった。ある者は彼と語らうために、ある者はその智慧と理論体系を学ぶために。そして今や当代随一のソフィストとして、アリストクレスの名はアテナイのみならず、地中海中の都市(ポリス)に広まっていたのである。
アリストクレスはまた、名門の一家の出であるのみならず、エジプトとの交易で財を成した有産市民でもあった。彼は噴火するアイトナ山を観光するために、シケリアへと向かっていたのである。彼は友人二人と共に、シケリア島でも、アイトナ山のお膝元であるカタナ(現在のカターニア)の港に向かう商船団に随行した。商船団の十隻の帆船には、護衛としてアテナイ海軍所属の四隻の軍用船が付き従っており、彼らはその一隻に同乗していたのである。
彼らが乗っていたのは三段櫂船で、船の両側から伸びた櫂を、三段に並んだ漕ぎ手が動かす。だが戦闘を前提にしていない護衛任務であるこの旅では、大きなマストを広げて進んでいた。百人以上いる漕ぎ手達も、櫂を握る労務から解放されていた。船の全長は30メートル、幅は5メートルで、三段櫂船としては小さかった。
 アリストクレスは自分の財産を使えば、この窮屈な軍用船に乗らずとも、自分のために快適な帆船を手配してシケリア島に行くこともできた。だが彼は友人の誘いによってこの船に乗る道を選んだのである。元より彼は、この船での生活を窮屈に感じてはいなかったし、快適な旅を望んでいたわけでもなかった。彼は船旅におけるほとんどの時間を、決して広くはない甲板で過ごしていた。凪で広がる水平線に目を凝らしてはこの世界が球形である証拠を確かめ、夜には空に散る星々の何たるかに思いを馳せ、そうして思索に耽っているだけでも、彼の精神は無上の喜びに満ちていたのだった。
シケリア島への到着を間近に控えたこの朝も、彼は実に爽快な気分で甲板上に立っていた。熱い日差しは時折、薄雲のヴェールをまとって和らぎ、南西から吹き付ける風は彼の髪を優しく撫でた。日差しに照り付けられて薫る、甲板の松の木の匂いが、潮風に混じってアリストクレスの鼻腔を満たした。彼はこの匂いが好きだった。迫ってくる巨大なアイトナ山を眼前に見据え、彼は気分の高揚を抑えられずにいた。
アリストクレスはふと、傍らに一人の同行者が並んで立ったことに気付いて声を掛けた。
「ねえ、レオニダス。こうしていると、僕らがあの島に近付いているのか、それともあの島が僕らに近付いてきているのか、分らなくならないか?」
「君ともあろう者が実に下らないことを言う。船が進めば島は近付く。船は動くが、島は動かない。ただそれだけの話だろう?」
 レオニダスと呼ばれた大柄で長髪の男は、アリストクレスの問いに不思議そうな表情で答えた。かつてアテナイ海軍で中隊長を務めていたこの男こそ、この軍用船に乗ってシケリア島に行くことをアリストクレスに提案した張本人である。二人の付き合いは長く、レオニダスはアリストクレスが子供の頃には剣術を教えていたこともあった。気の置けない仲である二人だったが、それでも時に、レオニダスはアリストクレスの考えを理解できない時があった。
「しかし、私は動いていない」
「一つ間違えれば君」レオニダスは大きく身振りを加えながら言った。「君は悪名高い、あの詭弁家たちと同じ議論をするという愚行を犯しかねないか」
「それは誤解だよ、レオニダス。私はただこう思ったのだ。この船が止まっていてあの島が近付いてくるのか、それともあの島が止まっていてこの船が動いているのか、それを証明することが、どうにも私には出来ないように思われるのだ」
「君がかい?まさか」
「いいや、ゼウスに誓って、私は冗談を言っているわけでも、詭弁を弄しているわけでもないし、ましてや君を欺こうなんてしているわけでもないんだ」
「勿論、君の言うことは信じる。それにしたって、船が動いているのは疑う余地もない。現に船は帆を張って進んでいて、そうでなければ百人を越える漕ぎ手達が櫂を漕いでこの船を進めるのだ」
「だが本当は進んでいないのかも知れない」
「波に揺られ、風を受けて揺られ、更に櫂が海面を漕ぐ時にも揺られ、それを私たちは体で感じている。それでも信用できないのか?」
「例えばの話だが」アリストクレスは冗談めかして口元を緩ませた。「この体に感じる風や揺れ、立っている足元、照りつける太陽の暑さ、いずれもが本当は実在していなかったとしたらどうだろう?」
「そんな馬鹿なことがあるものか」
「どうして馬鹿なことなんだい?」
「だってそうだろう? 鼻で潮の香りを嗅ぎ、目で実際に起こっていることを確認して、耳で君の話すことを聞く。どうして疑うことがあるんだ?」
「鼻も目も、耳も、それに舌だって、感じているのは我々の精神だ。違うかい?」
 少し考えて、レオニダスは納得したように頷いた。
「ああ、そうだ。精神が感じているんだ」
「じゃあ、精神は感じているものの全てが真であることを、どうやって証明すればよいのだろう?」
「そりゃあ――」簡単に答えられると踏んで、口を開きかけたレオニダスはそこで固まった。「そりゃあ、君……」
「目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、鼻が利かなくなり、舌が麻痺して、体が何も感じなくなったら、この世界は実在していないことと同じにならないかね? 感覚によって我々に知られているこの世界は、感覚によってのみ証明されている。しかしそれはこの世界の実在を証明していることにはならないのではないか?」
「それを言ったら、何も話は始まらないではないか」
「私が思うに」正面からの強い風を受けてアリストクレスは言葉を中座させたが、それでも清々しい表情を崩すことはなく言葉をつないだ。「そこから始まるのだよ」

ページ: 1 2 3