第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み ベラドンナの神託

『ベラドンナの神託』

山河珊瑚(やまかわ・さんご)28歳
1990年生まれ。某国立大学卒業。フリーター。


   零

 女は布団にくるまれて、白い裸のままだった。
 男はそこからすっと出て、窓から外の夜を見た。
「よかったのか?」
 糸で引っぱられたかのように、女はゆっくりとからだを起こした。
 布団がするりと滑りおちた。
 月明かりにその股は、朱くべっとり濡れていた。
 女はそっと、みぞおちあたりに手をやった。
「うん。これでいいの」
 外の夜が明けはじめているのを男は感じた。
「もういくよ」
 女は返事をしなかった。
 ただ、みぞおちの手をすこしだけ震わせて、
「―――これで―――いいのよ」
 と、ふたたびつぶやき、細いなみだを流しただけだった。

   一

 湿気の凝った車内にはすえた匂いが充満していた。誰もいい気のしない匂いではあるが夏の日の雨だからしかたなかった。乗客はみな悪感を胸にとどめて顔をすまし、思い思いの時間を過ごしているようだった。
 大学からの帰り道、連日遅くまでの試験勉強で寝不足だった遠ヶ峰修介(とおがみね・しゅうすけ)は、電車がカーブを曲がったときに体勢をくずして心地よいまどろみから目を覚ました。修介は寝起きのだらしない顔をあげ、ドア上部の案内スクリーンに目をやった。下宿先の最寄り駅まではまだもうすこしある。そう思いもういちど目をつむろうとしたところで、電車はちょうど一つの駅にとまった。
 見覚えのない駅である。
 この路線は通学につかっている。道中は本を読んでいたり寝ていたり、ただただぼんやりしていたりすることも多いが、それでも外観や景色を見ればどの駅なのかわかるほどにはこの路線に慣れ親しんでいる。
 しかし、見覚えのない駅だった。
 ホームに人影はない。車内の客はまばらである。誰一人として降りようとする気配はない。首を張ってあたりを見まわしても、駅名標もなければほこりにくすんだ広告看板もない。そういえば、到着駅を知らせるアナウンスも聞こえてこない。
 ―――乗り過ごしたのだろうか。
 不安が頭をよぎった。先ほど車内スクリーンを確認したときには、目的地までまだ三、四駅はあったはずだ。そこからのもうひと眠りのあの一瞬で、実はずいぶんと時間がたってしまっていたということだろうか。ありえないことではないが、どうにもしっくり来なかった。修介はもう一度スクリーンを見やったが、どういうわけか画面はちかちかと明滅するばかりで要領を得ない。
 ガスの抜けるような音とともに、ゆっくりとドアがひらいた。
 いつの間にか、長椅子にすわる修介のななめ前方に、白衣を着こんだ長い黒髪の女が立っていた。女はドアのすぐ前に立っているのだから、この駅で降りそうなものである。ところが女はしばらくしても、一向にそのような素振りは見せない。姿勢は悪くないが、見ようによっては全身の骨が抜けてしまっているような、だらりとした立ちすがたにも見える。修介からは後ろすがたしか見えないから、年齢や表情は推しはかれない。
 不審に思いはしたが、しかし今はそれどころではなかった。もし乗り過ごしていたのだとすれば、ここで降りて乗り換えなければならない。修介がそう思い、もう一度窓から外の景色を確認しようとしたときだった。
 白衣の女がおもむろに動きだし、霞みたつホームへと降りたった。
 女はびっこを引いていた。すこし右足をひきずるような、不格好な歩き方である。
 そのすがたを見て修介は思わず立ちあがった。急いでホームへ降りようとしたが、まるでそれを阻むかのようにドアは勢いよく閉まってしまった。
 修介は無心で叫びながら、閉じたドアを激しく叩きはじめた。その女は電車を降りたところで止まっていたが、かといって振り向こうとするわけでもない。すると、
「ちょッとお兄さん、困りますよ」
 と、帽子を目深にかぶった車掌姿の男がやってきて、ドアを叩く修介の手をつかんだ。ことのほか強い力である。修介はちらとだけその男を見やったが、すぐにホームに目をもどした。折からの雨のせいだろうか、ホームの大気は煙霞にひたり、ぼうっとくすんでいる。曖昧な背景にくっきりと浮かびあがるその女の影は、やはり動くことなくその場にとどまっている。
「―――すいません。あの、ここで降りたいんですけど」
「ここで降りる? アンタが? そいつァ無理ですよ、お兄さん」
「無理って―――。でも―――」
「お兄さん、ハハハッ。どうしてそんなに降りたいのかは知りませンがね、生憎ドアはもう閉まッてるンですよ。一度閉めたドアを開けるこたァできません。そういうことになッてるンです。ハハハッ、無茶言ッちゃァいけません」
 どうにもぶっきらぼうな物言いで、官僚的なことをいう男である。修介はすこし苛立ちを感じて、その男をにらみつけた。握りしめる力とは裏腹の、いやにひょろひょろとした骨と皮だけのような身体つきだ。
「ええ、それはわかってるんですが。でも開けようと思えば―――」
 そういいさした修介の目が、男の後ろの景色に奇妙な不具合を起こした。車両間の連結口がどうにもおかしいのだ。遠近法でだんだん小さくなっていく連結口が、まるで合わせ鏡に挟まれているかのように、どこまでも際限なくつづいているのである。
 そこで一気に吐き気が押しよせた。横隔膜が脈をうち、食道がぐぐっとひき絞られ、そして―――そして修介はこの場に自分がいるということが、身体の肉を裏っ返しに着てしまっているかのように、ひどく不自然なことのように思えてどうしようもなくなってしまったのである。
 ―――ああ。背骨が溶けて、尻へと垂れてしまいそうだ。
 まるでそうしなければ身体の骨組みがばらばらと崩れてしまうとでもいうように、修介は至極ゆっくりと周囲を見まわした。
 いったいここはどこなのだろう。自分はいつから列車に乗っていたのだろう。第一これは列車なのか。わからないことが多すぎる。それにしてもあの乗客たちは、どうしてこちらをじっと見つめているのだろう。
 修介は腕をつかむ男に、ゆっくりと視線をもどした。
「―――この列車は、一体どこに向かっているのですか?」
 男はもう、笑っていなかった。
「お兄さん。アンタはどこに向かッてるンですか?」
 急に、停まっていた列車が動きだした。不意を突かれた修介がよろめくと同時に、男はつかんでいた修介の腕をはなした。
 腕をはなされた修介は、いきおい床へと倒れこんでいった。そのとき、

 ―――大丈夫よ。すべてはつながっているのだから。

 どこからともなく懐かしい声だった。心をやさしく粟立たせるような慈愛に満ちた響きだった。その声は落下の無重力のなかで、確かな重みをもって修介の心に沁みわたった。
 衝撃は優しいものだった。むしろほとんど何も感じなかった。
 目をあけた。流れる景色が目にはいった。電車が通りこす景色だった。向かいにすわる女子学生と目があった。文庫の上から修介を不審そうに見つめていた。
 気づけば、修介は電車の長椅子に横向きに倒れこんでいた。
「まもなく、北五神(きたいがみ)。北五神。お降りの方は―――」
 気まずさに修介が女子学生に笑いかけると、彼女は文庫で機敏に顔をおおい、スカートのすそをそれとなく引っぱってひざを隠した。
 

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