第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 青色の記憶

『青色の記憶』

小林正和(こばやし・まさかず)56歳
1961年生まれ。千葉大学大学院工学研究科修了。自営業。


プロローグ
 熱い残滓が漂う館内に、男の足音が響いている。靴音は一定の間隔を保ちながら薄闇の中を進んで行く。男の足が踏み出すたび、額に刻まれた深い横皺に、汗が溜まる。真昼の太陽に焼かれた空気は、夜が更けても冷める気配がない。
 ルーブル美術館の警備責任者ジャン・ベルガーは、ズボンのポケットから薄汚れたハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。一九一〇年八月初旬のパリの気温は連日三十度を越えていた。記録的な暑さだった。パリ市民は冷たい飲物を口の中に流し込み、汗ばんだ体を扇であおぎながら灼熱の太陽を呪った。ジャンもその一人だ。水不足も深刻だった。マルヌ川の水を浄化し、給水所に引き込む計画もある。太陽がパリを焼き、すべての水が蒸発する前に、計画の実行を願うしかなかった。
 足を止めた。二階から何かの物音が聞こえた気がした。顎を上げ、耳の奥に神経を集中する。乾いた唇の端から漏れる息音しか聞こえない。空耳だったらしい。暑さに鼓膜までいかれてしまったようだ。口の中で舌打ちすると、苦笑いが頬に広がった。
 異常気象による連日の暑さは、人間からすべての気力を奪い取る。働く気持ちも、食欲も、女を抱く性欲も。泥棒とて同じだろう。ましてルーブルに盗みに入る間抜けな奴はいないはずだ。
 二階につながる階段を見上げた。大理石で作られた手摺に触れると、心地よい冷たさが掌から染み込んでくる。手摺の感触を楽しみながら階段を上がった。
 この暑さだというのに、いつもの日曜日より入館者が多かった。パリの市民や裕福な外国の観光客たち。どの見学者も一瞬たりとも、一点たりとも、美術品を見逃さないと言わんばかりに、真剣な表情を浮かべていた。彼らの顔には人間の貪欲さが現れている。飽くなき欲望は暑さとは無縁らしい。
 ジャンは美術館を訪れる見学者が嫌いだった。不心得者は磨き上げられた床を泥まみれの靴で踏み、壁に脂ぎった手垢をつけ、展示品に触る。奴らの帰ったあとには、無数の汚れと忘れ物の山が残る。入館者がいなくなれば、どんなに幸せだろう。だが、そんな日は訪れない。誰でも知っている真実だ。ルーブルの門が開けば、また、たくさんの見学者が押し寄せて来る。
 廊下の先を眺めた。重厚感のある柱が両側から迫っている。目の前の大殿堂は、ルイ十四世がヴェルサイユに宮殿を移したあと、放浪者に占拠された過去がある。大革命のときは兵器庫として使用されたこともあったし、放火された歴史もある。そんな暴虐を受けながら、ルーブルは生き続けてきた。今では世界最大の、最も権威ある美術館として認められている。
 ルーブルの所蔵品は二十七万五千点を超えている。ギャラリーの総面積は十八万二千平方メートル。ヴァチカン市国の三分の一以上の広さだ。ギッド・ミシュランではルーブルを「世界最大の宮殿」と称賛し、ある美術史家は「ルーブルは生ける思想」と表現した。そんな偉大な美術館で働けることを、ジャンは誇りに思っていた。それと同時に、無礼な見学者を許せなかった。
 手にした懐中電灯で、ギャラリーの中を照らした。名画たちが眠りについている。一枚一枚の絵画から息遣いが聞こえてくるようだ。明日の月曜日は休館日だ。絵画たちも、丸一日休めるだろう。廊下に出た。あくびを噛み殺しながら先へ進む。
 来年から貴重な絵画は防護ガラスで覆われる、と事務員の一人が話していた。正式な決定は十月になるらしいが、ほぼ間違いないという。それも愚かな芸術破壊者のせいだ。名画に硫酸を浴びせたり、ナイフで切り裂いたり……。そんな人間は頭がおかしいのだ。美術館からつまみ出せばいいのだが、外見から彼らを見分けるのは難しい。
 以前、絵画にナイフを突き刺した男を捕まえたことがあった。男は一見平凡な市民にしか見えなかった。だが普通の人間とは目の動きが違っていた。病的でいて、熱を帯びた目つき。かなわぬ恋に発狂したら、あんな表情になるのかもしれない。男の歪んだ笑みの先で、片目をくり抜かれた貴婦人の肖像画が、聖母のような笑みを浮かべていた。
 突然、頭の中に小さな違和感が忍び込んできた。足を止め耳の奥に神経を集中する。館内は静寂に包まれていた。いつもと変わった様子はない。いや、何かが違う。
 臭いだ。微かに異臭が漂っている。鼻から大きく息を吸い込み、臭いの正体を探った。何かが燃えている。木が焦げるような臭いだ。耳を澄ませた。ゴォーという細い音が鼓膜を震わせる。一階で耳にした物音は空耳ではなかったのだ。
 何者かが館内に忍び込み……そして……。
 貴婦人の肖像画にナイフを突き刺した男の横顔が浮かんだ。冷えた手で心臓を握り潰されたような苦しさと共に、背中の毛穴から冷たい汗が噴出してくる。
 サロン・カレのほうから淡い光が漏れていた。青白い光だ。闇に溶け込むように弱々しかった輝きは瞬く間に激しさを増し、灰色の空間を切り裂くほど強くなった。あのギャラリーには多くの貴重な絵画が展示してある。ラファエロの秀作やヴェネローゼの大作「カナの婚宴」……ダビンチの「モナリザ」もあったはずだ。
 気がついたときには走り出していた。額から大量の汗が流れ落ちてくる。
 ギャラリーの中に飛び込んだジャンは、一点を見つめたまま動けなくなった。青い炎が一枚の絵を飲み込んでいた。青い生き物が絵画の表面でのたうち回っている。肉食動物が獲物の喉元に喰らいついたような激しさだ。炎の中心部は濃い白色で、周辺に広がるにつれ青味を帯びている。
 周囲を見渡した。水の入ったバケツなど置いてあるはずもない。邪悪な炎を消す道具はなに一つ見当たらない。床から足裏を引き剥がし、乱暴にシャツを脱ぐと、それを右手に巻きつけ、青色の炎に向かって走り出した。シャツで炎を払い落とそうしたとき、青い炎は、まるで魔法のように、一瞬のうちに消滅してしまった。焼け跡には、焦げた額縁と煤で黒ずんだ壁があるだけだ。そこに飾ってあったはずの絵は、どこにも見当たらない。ジャンは呆然と立ち尽くした。
 どの絵が燃えたのだろう……。恐る恐るギャラリーを見渡した。モナリザが柔らかい笑みを向けている。その隣のコレッジョの「聖カテリーナの結婚」もティッィアーノの「アレゴリー」も無事だ。ここに飾ってあった絵は……確か、フェルメールの「髪飾りを付けた少女」だったはずだ。サロン・カレに運び込まれた日の様子ならよく覚えている。館長直々に絵の位置を指定したのだ。
 絵に火を放った犯人は、まだ美術館の中にいるのかもしれない。強張った首を無理やり回した。怪しい人影はない。ギャラリーの中には身を隠す場所はなかった。犯人はすでに逃走したらしい。
 モナリザと目が合った。彼女なら、絵に火を放った人物を目撃しているはずだ。
「誰が、絵を燃やしたんだ……」口から言葉が漏れた。
 モナリザの瞳が動き、唇が開いた。憂いを帯びた穏やかな表情は消え、怒りに満ちた顔で睨んでいる。しなやかな指が動き、絵から抜け出そうと体を左右に揺すり始めた。
 ジャンはあとずさりした。絵が動くはずはない……。俺は頭がどうかしてしまったんだ。この暑さのせいに違いない。悪夢から覚めようと、瞼を硬く閉じ、激しく頭を振った。大きく息を吐き出してから、ゆっくりと瞼を開けた。
 女の足が目に入った。床に足をつけ、モナリザが近づいて来る。彼女の瞳は憎悪で揺れていた。上体を引き、叫び声を上げた。一度口から零れた悲鳴は次から次へと溢れ出してくる。背中が壁にぶつかった。ざらついた壁に手を這わせ出口を探し、廊下に倒れ込んだ。苦痛で頬が歪む。野良犬のように四つんばいになり、腕と足をばたつかせながらサロン・カレから遠ざかった。
 足音が近づいて来た。ジャンは救いを求めるように顔を上げた。守衛仲間のドニス・アーツの姿があった。自分の子供と同い年の若者に手を伸ばし、肩に指先を食い込ませながら、その場に立ち上がった。掌からドニスの熱い体温が伝わってくる。若者の熱気がジャンの脳裏に青い炎を蘇らせた。
「何があったんですか?」ジャンの腕を振り解き、ドニスが訊いた。
「絵が燃えて……消えてしまった。そしてモナリザが……」
 ドニスはジャンの言葉を遮り、サロン・カレに向かって走り出した。ドニスの足音が薄闇の中に吸い込まれていく。一瞬の静寂のあと、男の叫び声が空気を引き裂いた。ドニスが息を切らしながら戻って来た。
「フェルメールの『髪飾りを付けた少女』がなくなっている。すぐに警察に連絡しないと」
「モナリザは……どうだった?」
 ドニスは怪訝そうに眉を寄せた。「彼女なら無事ですよ」
 背中を向けると、ドニスは猛然と駆け出した。ジャンは遅れまいと彼の背中を追った。
 サロン・カレから遠ざかるにつれ、ジャンは平静を取り戻した。モナリザが絵から抜け出すわけがない。幻を見たのだろう。だがフェルメールの絵が燃えたのは事実だ。苦しい息の中、頭の中に疑問が広がる。なぜ、「髪飾りを付けた少女」だけが燃やされたのか。
 激しい足音が館内に響いた。ルーブルの眠れない夜は、始まったばかりだった。

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