第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み ターミナル・ポイント

『ターミナル・ポイント』

越尾圭(こしお・けい)45歳。
1973年生まれ。愛知県出身。早稲田大学教育学部卒業。
現在は東京都内のインターネット関連会社に勤務。


第一章 発端
  1

 電子音に叩き起こされた。
 暗闇の中、幾度も手をさまよわせてスマートフォンを探し当てる。
「はい、遠野……」
「た、太一君。桃子が倒れたんだ。診てやってくれないか。頼む」
 こちらが言い終わらないうちに、切羽詰まった男の声が鼓膜に衝撃を与える。桃子ということは、近所に住む笹本栄二のところだ。桃子は三歳ほどだったか。
「症状はどんなです?」
「息はあるが、ぐったりしてるんだ。太一君、助けてくれ」
「心当たりは」
「何か飲み込んでしまったみたいで」
 呼吸ができているのであれば、窒息ではなく消化器系の損傷か。
「連れてこられますか」
「診てくれる?」
「すぐに。慎重に連れてきてください」
「あ、あ、ありがとう」
 動転する笹本の礼には答えず、遠野は端末を置いた。急患連絡を受けるため、スマートフォンはベッドのすぐ脇に置いてある。診察室に飛び込んで白衣を羽織り、レントゲンの準備を開始した。異物の誤飲であれば、バリウムを飲ませなくても把握できる。診療所の玄関の鍵を外し、待合室で笹本を待つ。足音が聞こえてきた。遠野はドアを開けた。笹本が桃子を抱きかかえて小走りで近づいてくる。
「そのまま入って」
 笹本の顔は青く、額が汗ばんでいる。靴置き場でサンダルを脱ぎ、ゆっくりと診察室に入ると、桃子を診察台に横たえた。遠野は聴診器を桃子の胸に当てる。息が荒いが呼吸は問題ない。
「レントゲンを撮ります」
 桃子の首筋と腰に手を入れて抱き上げ、レントゲン室の撮影台に寝かせた。二枚撮り、診察室のパソコンで画像をチェックする。胃に槍状の物体が鮮明に写っていた。串を飲み込んだのか。この長さでは内視鏡での摘出は無理だ。手術に踏み切る決断をくだす。
「串の誤飲ですね。胃に刺さっているので、緊急手術を行います」
「手術……」
 笹本は現実感がないように呟き、突っ立っている。
「待合室で待っていてください。そんなに時間はかかりませんから」
 笹本はこくりと頷いて診察室から出ていった。遠野は奥にある手術室へ移動する。桃子を手術台にそっと置き、手術着に着替えた。冷蔵庫に保管してある鎮静剤と抗生剤を注射する。三分ほど待ってから麻酔薬の注射針を肌に立てた。麻酔薬は少量ずつ時間をかけて注入する。瞼を指で触れつつ、眼瞼反射の消失を確認して注射器を離す。続いて気管チューブを喉に入れ、心電図を取りつける。麻酔に加えて鎮痛薬を打っておく。術後に麻酔が切れても、鎮痛薬は効いているので痛みが軽減されるからだ。
 わずかな毛も残さず腹部を剃毛して消毒し、開腹作業に入る。メスで皮膚を裂き、めくった皮膚を開創器で固定し、胃の切開を始めた。
 胃の内部を注視するまでもなく、目標としていた異物はすぐに見つかった。串だ。手で折った串の一方のようで、両端が尖っていた。その一端が胃壁に突き刺さっている。深夜なので胃に内容物はなく、串だけが残っている状態だ。食道や気道を突き破らなかったのは幸運としか言いようがない。胃壁をこれ以上傷つけないよう、慎重に串を抜き取る。多少出血しているが、この程度なら処置せずに腹を閉じても大丈夫だ。
 串をトレイに投げ入れ、胃と皮膚の縫合へと移った。最後の一針を縫い終え、室内の掛時計を確認する。手術開始から約一時間。
 縫合した箇所を消毒し、ガーゼをあてがって包帯を巻く。心電図などの計器へ目をやった。今のところ異状はない。この場に寝かせておき、後で移動させよう。どうせこのまま入院だ。入院期間は十日から二週間程度か。日が変わって今日は七月二十九日だから、遅くともお盆までには退院できそうだ。
 手術着のまま椅子に座り、二十分ほど桃子と計器の様子を見守った。変化は見られない。麻酔の量からいって、もう意識を回復する頃だ。手術室から出て終了を告げると、笹本は目に涙を浮かべて手を握ってきた。
「ありがとう。桃子までいなくなったら、俺はどうすれば……。これでまた生きていける」
「オーバーな。誤飲には充分注意して。串が折れていましたよ」
「夕飯に焼き鳥を買ってきたんだ。桃子は喜んで食べてたんだけど。捨てるときに長いと危険だと思って、折っちゃったんだよ。ごみはちゃんと管理しないと駄目だな……」
「そうしてください。しかし、よく気づきましね」
「毎晩のことなんだが、トイレに行きたくて起きたんだ。そしたら」
「不幸中の幸いでした。もう少し遅かったら死んでいたかもしれませんよ」
 際どいところだったと聞き、笹本の喉仏が大きく上下する。
「まだ寝てますが、見ていきます?」
 遠野の勧めに笹本は即応し、足早に手術室に入った。
「桃子、よかったなあ。玉江が亡くなってから、俺の生きがいはおまえだけだったもんな」
 笹本はほとんど号泣しながら、年甲斐もなく手首を瞼に何度も擦りつけている。
「桃子ちゃんは婆さんの代わりですか? 笹本さんが先に逝ってしまったら、うちで面倒を見ますよ」
 遠野の憎まれ口にも、笹本は「うん、うん」と言って首を小刻みに振っているだけだ。桃子がかすかに動いた。そろそろ麻酔が切れてきたか。笹本が桃子に顔を近づける。
「桃子、わかるか。俺だぞ」
 笹本の声が聞こえたのか、桃子は「クゥン」と小さく鳴いた。目が半ばまで開かれ、チワワの黒目がちな眼球が、確かに笹本をとらえているように見えた。

  2

「遠野動物診療所」は、親子二代続いている動物病院だ。
 先々代である遠野の祖父は三代続いた薬問屋であり、遠野の父が店を改修して動物病院を開業した。無類の大酒飲みだった父の耕一は四年前に肝硬変で他界。顔を赤くしながら診察するものだから「赤鼻先生」などと渾名をつけられていた。しかし腕前は侮れず、近所でも評判の名物獣医だったから、遠野が二十六歳という若さで跡を継いだときには、何かと比較されてやりにくかった。
 そんな父の子である遠野は、物心がつく頃から動物に囲まれて育ってきた。小学校では飼育係、中学や高校の授業では生物が大の得意で、大学は獣医学部に進学した。卒業後は練馬にある動物病院に勤務し、父の死とともにこの診療所を引き継いだ。診察室の天井付近に父の写真が飾ってある。当然ながら顔は真っ赤だ。いや、赤くないと飼い主たちが赤鼻先生と認識できない。だからわざわざ赤い顔の写真を架けている次第だった。
 女より動物、貯金より酒代。動物と酒をこよなく愛する父だった。それが理由だったのか定かではないが女房、つまり遠野の母に逃げられ、遠野が中学一年生のときに父子二人暮らしとなった。金を貯めるという概念を持ち合わせていない父だったから、とくに大学への進学は大変だった。世襲制でもないのに「太一、おまえは獣医師免許なんていらん。俺の真似してりゃいいんだ。俺が死んだら病院はくれてやる」と嘯いていた。
 遠野が必死に説得すると、一校だけなら受けていい、ただし合格しても授業料は奨学金かバイトで稼げといって、社会の荒波を早々に経験させてくれたありがたい父だった。そのくせ都内の大学に進学が叶うと、「さすが俺の息子だ」と診察に訪れる飼い主たちに嬉しそうに喧伝していたそうだ。
 父の写真が入った額縁に見下ろされて笹本を帰すと、桃子を診察室の隣部屋へと移動させた。入院中のペットたちの寝息が聞こえる。最前にあるケージに桃子を置いてやった。鎮痛薬は朝までもつから、起床後にまた投薬してやればいい。
 やれやれと思ってTシャツとスウェットパンツ姿になり、時計を見ると午前三時過ぎ。もう一眠りしようとベッドに足をのせたときだった。
 再びの着信。
 スマートフォンが呼び立てている。また急患だろうか。しかし着信表示に「小塚恭平」とある。どうしてあいつがこんな時間に? 表示されているのは恭平の自宅の電話番号だ。嫌な予感を携えながら通話ボタンをタッチした。
「遠野だが」
 無音だ。返事がない。
「おい、恭平。どうした」
 やはり無反応だ。いや、わずかだが息づかいが聞こえる。
「恭平! 返事しろ。何か起きたのか」
 応答がない。心臓か脳に急性症状が現出して倒れたのだろうか。だが、電話ができる状態であれば病院に連絡するはずだ。なぜ俺に。疑問が次々と折り重なって層を成していく。

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