第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 砂塵のサアル 血の復讐

『砂塵のサアル 血の復讐』

澤隆実(さわ・たかみ)55歳
1962年、福島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。会社員。


▽シリア北部アフリン

乾いた夜気が揺れ、浅い眠りが途切れた。
「アッラーフ・アクバル」
夜明けの礼拝を告げる、男のにごった叫び。同時に鶏たちが、けたたましく鳴いた。コンクリートブロックに囲まれた寝室内に響いた。中野ユミは目を覚ましても、固いベッドに横になったまま、部屋の出口の方に目をやった。
見張りの男の背中が見えた。黒い戦闘服の両肩が盛り上がって、自動小銃のストラップが揺れている。外を見ているが、注意は常にこっちに向いている。万が一にも、人質が逃げたり、自殺したら、見張り役は即座に責任を取らされ、殺されるからだ。
でもどうやって逃げる? 助けも来ない。私がこんな地の果てにいることを知っている人は日本にいない。みんながシリアの内戦は終わったと思っているのだ。でも地獄はいつも、忘れ去られた場所でぽっかりと大口をあけている。私はそこに飲み込まれた。
外から入り込んだ砂塵混じりの空気が、鼻腔に絡みつく。窓の方を見ると、錆びた鉄格子の向こう側の空に、オレンジ色に染まる一条の雲が浮かんでいた。背の高いナツメヤシのてっぺんが、朝日を浴びている。太い枝からはロープが垂れ下がり、下端に男のシルエットがあった。その方向からは既に死臭が漂い始めていた。
首を吊られた無残な姿。それでもその男に対する奇妙なうらやみが、ユミの心の中に広がった。もう一度だけでいい、空の下で陽の光を浴びたい。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む感覚を想像し、気分は高揚したが、隣室から聞こえてきた赤ん坊がぐずる声で、現実に引き戻された。
ユミは他の女たちの様子を見るため、いつものように、寝室とドア一つ隔てた一般人質用の監禁部屋に入った。医療の心得があるユミは、彼女たちの健康状態をみて、異常があれば手当や薬を要求するのが日課だ。
監禁部屋には十人以上の女たちが、粗末なマットレスと毛布の間で、嵐を避ける鳥のように身を縮めていた。寝息を立てている者、寝返りを打つ者。何人かはすでに目覚めているようだが、つらい時間が始まるのを少しでも遅らせようと、固く目をつむったままでいる。そうしているのは、どうせろくな一日にはならないことを知っているからだ。ここではひどい一日か、とてもひどい一日しか与えられない。
一人の母親の胸にしがみついていた赤ん坊が泣き、乳臭い息が漂った。その臭いにつられてか、母子の周りを黒いハエが飛び回った。この土地に生きるハエは、なんでこんなにすばしっこく、しつこいのか。彼女の右手の動きを予測するように、払った瞬間には飛び立って、別の体を目指していた。
女たちが朝の祈りで神にお願いすることは一つ。今日相手を強いられる男たちが、たとえわずかにでも人間の心を残していることだ。ここにいる女たちのほとんどが、すぐにでも神が自分に死を与えてくれることを願っている。彼女たちを励ましながらも、ユミは死への誘惑を辛うじて撥ね退けている自分自身を見つけることがある。ここで起きていること、戦争がもたらしている許しがたい悲劇をいつか終わらせる。その目的があるから何とか命をつないでいられる。
イスラム聖戦軍が隠れ家にしているこの民家を彼らは「ベートゥ・アッサラーム」と呼ぶ。「平和の家」を意味するその呼び方にユミは嫌悪感を覚える。ここで起きていることは、平和とは程遠い。
ふいに下の階から足音が響いた。女たちが毛布の中で身を固くした。男たちが礼拝を終えたようだ。そのまま戦闘に出かけたり食事したり、とその後の行動はそれぞれだが、一番恐ろしいのは、夜戦帰りの男たちだ。あいつらは獣の群れ。「お前たちのような汚れた女は、犬にも劣る存在だ」男たちはそう言い放っては、戦闘での死の恐怖を、歪んだ欲望に紛れ込ませて吐き出す。
自ら命を絶つことを考えている彼女たちだが、実行できないのは、手段が無かったからだ。厳しい身体検査が日に何度も行われ、刃物など金属類はもちろん、短い紐類に至るまで、男たちを傷つけたり自傷したりする可能性がある物は、一切所持が禁じられている。男たちは、その身体検査すら、欲望を満たすための手段として楽しんだ。誰もが、検査のたびに屈辱的な格好をさせられる。
足音が大きくなった。恐怖と嫌悪が伝染し、女たちの間で嗚咽が漏れた。
壁際のマットレスの上で寝ていたファティマが、毛布から頭を出した。まだ十八歳のあどけなさを残す瞳は、一瞬だけユミの目を捉えた。が、視線はすぐに黒ずんだ漆喰の天井へ逃げた。
「おはよう」
ユミはまだ寝ているほかの女たちを起こさないよう、低い声で呼び掛けた。「おはよう」と弱々しい返事があった。
「体調はどう」と訊くと、ファティマは返事の代わりに「手紙はお父様に届いたかな」とつぶやいた。
捕まって一カ月がすぎたころ、彼女は聖戦軍の新兵で幼なじみの青年に偶然会った。兵士の欲望を満たす「奉仕の間」と呼ばれる部屋で、最悪の再会だったが、彼はまだ人間らしさを残していた。ファティマを欲望の対象として慰み者にすることがなかっただけでなく、その場で父親へのメッセージを書くことすら許してくれたという。外界との接触を遮断された奴隷や人質にとって、危険を省みぬ人間との出会いや親切は、奇跡としか言いようがない。
父親には、身代金があれば、助かるかもしれないと伝えた。シリア東部の有力部族である父なら、相当な額の金を用意できるはず。そうなれば、解放の可能性も出て来る。その望みだけが彼女の命をつないできた。
「大丈夫。もう少しの辛抱」ユミがそう励ましたとき、ファティマが息を止めた。恐怖心を湛えた目が見つめる方向にある監禁室のドアが開き、まだ暗い廊下の奥から大きな人影が入ってきた。ハミドだった。五十歳ぐらいの聖戦軍幹部で、ファティマに異常な執着を見せる男。自動小銃を抱えている。分厚いブーツを履いているので、夜戦帰りなのだろう。ハミドは一度ファティマに向けた人差し指を、自分の方に二、三度くいくいと曲げた。来い、というサインだ。
期待と不安、正反対の気持ちを半分ずつ混ぜ込んだ顔つきでファティマは体を起こした。アドバイスを求めるような視線を送ってきた彼女に、中野は「お父様を信じて」と応えた。それ以外に一体何を言えばいいのか。彼女が解放されれば、自分を含めた女たちの希望にもなる。
ユミは祈った。
だが答えは、ファティマが部屋を離れて数分で出てしまった。
監禁部屋と同じ二階にある「奉仕の間」に向かった彼女の喉が放ったのは悲鳴だった。いつものような、苦痛や屈辱に耐えるための声ではない。心をざっくりと裂く刃物を想像させる響きがあった。
すぐに何か柔らかい物が床に叩きつけられる音が響き、殴打の音と悲鳴が交互に聞こえた。監禁室のドアが開き、小さなファティマの体が床に転がった。それは壊れた人形に見えた。紫に腫れあがった饅頭のような顔があった。目は割れたガラスのようで、その中には、もう何も映っていない。
「馬鹿女ども、よく聞け」野太く、怒気を含んだ声が、ハミドの喉から響いた。「ここから解放されようなどという無駄な希望は捨てるのだ。ファティマは愚かにも家族の力を頼って、愚かな希望を持った」
ハミドは彼女の顔に向けて唾を吐いた。唾は目の近くに当たり、白い泥の筋のように頬を伝った。「こいつの親から返事があった」ハミドは嗤って話を続けた。「娘は差し上げます、だとよ。絶対に帰してくれるなと付け加えてな」
ハミドは緩んだベルトを締め直し、廊下の奥へ消えた。また喉を鳴らして唾を吐き出す音が響いた。
明るくなった窓の外で、ナツメヤシから吊るされた男の体が風で揺れた。こっちを向いた死に顔には、見覚えがある。ファティマが父親への手紙を託した若い新兵だ。背信行為が上層部にばれて処刑されたのだろう。
床に転がされ、天井を向いたままだったファティマが口を動かした。乾いた唇は、何かを言おうとしたようだったが、もう言葉にならない。
聞かなくても分かる。〈もう死なせてください〉唇はそう動いた。
「どのみち帰る場所はないの」女の一人が泣いた。「聖戦軍に捕まって純潔を失った日に、迎え入れてくれる家族は消える。自分に非があっても無くても」
結婚前に純潔を失った女は、家族と部族の名誉を汚したことになる。万が一解放されたとしても、掟に厳格な家族は赦してくれない。ファティマの父親のように。万一帰れたとしても、アラブに古来から残る名誉殺人の犠牲となるだけの運命が待っている。
また誰かの赤ん坊が泣いた。周囲を見回すと、女たちが祈っている。口の動きはファティマと同じだった。殺してください。死なせてください――
朝の鶏の鳴き声。痰が絡んだ老人に似ている。そしてあの男が口にした言葉が、脳裏で重なった。
〈戦争は多くの命を奪う。私はその事実を憎む。本当だ。信じてほしい。だが、戦争がもし奪うだけじゃないとしたら、どう思うかね? 殺し合いにも価値が生まれる〉
したり顔で話したあの男の顔を思い出すと、怒りで身震いがする。殺してやりたかった。
また鶏が鳴いた。
長い一日が始まった。

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