第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 思い出質量パーセント濃度

『思い出質量パーセント濃度』

猫森恋(ねこもり・れん)29歳
1989年生まれ。アニメーション制作会社を退社後、フリーター。


ぼくの章 一 八尋竜一

 蝉の声がうるさい。
 アスファルトの上で揺れる蜃気楼が遠くのあぜ道をぐにゃりと曲げ、山の上には巨大な蟹の怪物のような真っ白い雲が、横歩きするみたいに漂っていた。あの蟹がこちらまで来てくれたら随分涼しくなるだろうと思った。
 ここらの子供たちが投げ捨てたであろう花火の燃え滓が排水溝に浮かんでいた。ぼくはその排水溝の前で立ち止まり、家と家の間の薄暗い隙間に通る用水路を覗き込んだ。水路の上では何匹もの羽黒トンボがひらひらと舞っている。誰が捨てたのか、スナック菓子の袋が流れてくるのが見えた。菓子袋は道路の下に吸い込まれ、ぼくの足元を通り抜けていく。その菓子袋を追うようにして流れの先に広がる田んぼに目をやった。
 青々とした稲草が風に揺れ、さらさらと涼しい音を鳴らしている。
 田んぼの奥に橋が見えた。橋の下には川が流れている。よく、あの橋から川に飛び込んで遊んだものだと、ぼくは幼い頃を思い返した。
 強い日差しに手をかざしながら、ぼくはまた歩を進める。
 道の先で喪服を着た老婆が家の門に入っていく姿があった。庭の先には古めかしい二階建ての日本家屋が建っている。ぼくもその家の門の前に立った。門柱には『八尋(やひろ)』と刻まれている。ぼくと同じ名字。ぼくの家。
 何年ぶりだろうか。
 玄関に『御霊燈』と記された提灯がぶら下がっている。
 久しぶりに見た実家は思い出の中の姿とは随分と雰囲気が違っていた。改装でもしたのだろうか、それとも思い出が間違っているのだろうか。通夜があるせいかもしれない。
「おじさん」
 横からの声に振り向くと、制服を着た女の子が立っていた。
 中学生ぐらいだ。今時珍しい三つ編み、紺色のセーラー服が一昔前の女学生のようである。親戚の子だろうか。記憶の中に小さな子供がいたかどうか探ると、祖母の葬式に幼児が来ていたことを思い出した。しかしあれは男の子ではなかったか。
「八尋竜一(りゅういち)さんですよね?」と彼女は訊いた。
「そうだけど……君は久美おばさんとこの子?」当てずっぽうで訊く。
「ええ、まあそんなとこです」女の子は微笑み、「ちょっとお話しませんか? 退屈なんですよ」と言った。
「お話?」ぼくは家のほうを見る。
「葬儀は五時半からなんで、まだ三時間もありますよ。ね? 行きましょう」彼女はそう言うと、我先に歩き出した。
 顔もよく覚えていない親戚らに挨拶をして回ることを、ぼくは想像するだけで億劫に感じていた。だから門の前で立ち止まっていたのだった。
 ぼくの頭にまた、祖母の葬式が蘇った。あの日の父と母はよく喋り、祖父は静かで、どこか居心地が悪かった。
 確かに葬式は退屈なものだと彼女の言い分に納得する自分がいる。
 誰かに言いわけをするようにもう一度家のほうを見て、それから少女のあとを追った。
「どこに行くんだい?」彼女の背中に訊くと、「どこまで行きましょうか」と返してきた。
「君……名前は?」
「久遠(くおん)です」
「くおんちゃんか、それで話って、なんの話をするんだい?」
「おじさんのお話が聞きたいです」
「ぼくの?」
 はい! と彼女は快活に応えながら、道ばたの石ころをこつんと蹴飛ばした。石はかんかんと転がり、田んぼに沿って流れる用水路に音も無く落ちていく。
 田んぼに張った水の中で田螺がゆっくりと這う姿が見えた。
 銀色の軽トラックが目の前を通り過ぎたところで、彼女が言った。
「おじさんの思い出を聞かせてください」
「思い出? なんの?」
「なんでもいいですよ」
「ぼくの思い出なんかが聞きたいの?」
「はい。趣味なんですよ、人の思い出を聞くのが。……変ですか?」
 変だと思ったが、口にはしなかった。
 すると女の子は立ち止まり、くるりとこちらに振り返った。
 ぼくの目をじいっと見てくる。
「話したいことがあるんじゃないですか?」
 話したいこと。あるような気がした。
 夏草がざわめいて、紺色のスカートが揺れた。
 ぼくの思い出。
 川の音が聞こえる。

   ぼくの思い出の章 一 ~天立小サルスベリ事件~

   1

 渡良瀬良平(わたらせ・りょうへい)のことが嫌いだった。あいつと初めて同じクラスになったのは三年生のときだった。ぼくの後ろの席にいたあいつは、いつも白いシャツを着ていた。ぼくはそのシャツが汚れているところを見たことがない。あいつはいつも、ぼくらが何かしているのを子供っぽいと見下している節があった。自分も子供のくせしてから。だから渡良瀬はぼくらの遊びに参加しなかったし、ぼくらもかたらせはしなかった。けれどもあいつは寂しがっていたり、つまらなそうにしている様子は微塵も見せなかった。そういうところもぼくらの癪に障った。
渡良瀬の相棒は本だ。あいつはいつも本ばかり読んで過ごしている。ドイル、乱歩、ファーブル、ユーゴーを昼休みに広げていた。たまに運動場に出てきたときですら、大きなタイヤ菅の中で読書をしていた。
そんなあいつに一度話しかけたことがある。
「お前なんでこんなとこで本読むとや? 教室で読みゃいいやん」
「教室は暑いんだ」
 あいつはこっちを振り向きもせず言いやがった。
生まれも育ちもこの町のくせしてから、標準語を喋っているのも気に食わなかった。
 
 六年になってまた渡良瀬と同じクラスになった。ぼくの名前が八尋竜一なので、五十音順の最初の席は必然的にあいつと近くなる。渡良瀬はまたぼくの後ろの席だった。六年になってもあいつは全く変わってなかった。中間休みに本を広げ、そしてまた昼休みに本を広げていた。変わったことといえば、手にする本が大人が読むような物ばかりになっていたことと、そして図書委員になっていたことだった。
 あいつは意外と女子に人気がある。中間休みも昼休みもずっと教室にいるので、それが功を奏して女子たちと仲良くなっていったのだ。
 たぶんその辺が、ぼくらがあいつに対して変な感じで一目置いていた理由でもある。
 そしてあいつ―渡良瀬良平の本性を見たのは小学校最後の夏休みが終わったあとのことだった。

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