第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 不可逆チルドレン

『不可逆チルドレン』

五十嵐憂季(いがらし・ゆうき)28歳
1990年生まれ。東北大学法学部・同法科大学院卒業後、司法試験合格。


 プロローグ

 二〇一八年 三月十三日(火)

 自分の皮膚が焦げる臭いで、私は意識を取り戻した。
 私にとっては慣れ親しんだ、日常の香り。だからこそ、即座に臭いの正体に気付くことができた。だが、臭いの発生源である右腕を起点として全身に駆け巡ったのは、あまりに非日常的な激痛だった。
 身をよじらせ、悲鳴を上げようとした。手足が縛られていたため前者は失敗に終わり、口元が塞がれていたため後者を実行することもできなかった。
「あっ……、起きたんですね。おはようございます。先生」
 それは、椅子に拘束された私のすぐ側で、膝を抱えながら座っていた。
 夏祭りで見かけるような狐の面。右手に握られたガスライター。オレンジの炎。
「どうしてこんなことになってるか、わかりますか?」
 灰色のニット。黒のロングスカート。赤いスニーカー。
「聞こえてます? 質問に答えてくださいよ」
 ルームライトだけが点灯した薄暗い室内。フローリングの床。盛り上がったベッド。
「答えないと、また炙りますよ」
 そこで、多くのことを理解した。狐の面を被っている彼女が誰で、ここが何処なのかを。私が置かれているのは、限りなく最悪に近い状況だった。
 やめろ。そう叫ぼうとしたが、やはり口は開かない。テープを貼られているようだ。
「色々と思い出してきましたか? じゃあ、少しだけ振り返りの時間をあげます」
 許可を受けるまでもなく、私は記憶を遡り始めていた。瞳を閉じて、記憶の糸を辿る。その糸は、それほど長いものではなかった。
 短いメッセージの文面。狐の面。あどけない少女の笑顔。
 そうか……。私は、騙されたのか。
 登録していたSNSでメッセージを受信したのは、一か月ほど前のことだと記憶している。送信者のユーザー名はフォックス。アイコンは、狐の面が描かれたイラストだった。
 これまで見向きもされなかったアンダーグラウンドな趣味に寄せられた、好意的な反応。スパムの類ではないことは明らかだったので、私はすぐにリプライを返した。
 メッセージの送受信は、想定していたよりも長く続いた。その過程で、フォックスが年下の女性であることを知った。そして、愚かな私は、実際に会う約束までを取り付けてしまったのである。
 無言で家を出たときの背徳感は、仕事や家庭では決して味わえないものだった。
 待ち合わせの場所に現れたのは、告げられていた年齢よりも幼く見える少女だった。
 その時点で、まずいと思った。危険信号は、確かに点滅していた。
 だが、引き返せなった。いや……、引き返したくなかった。
 フォックスは、ホテルの部屋は既に予約していると言って私を誘導した。そんなつもりはないと口にはしたが、背中を押す小さな手を振り解くことすらできなかった。そして、彼女に促されるままに、ホテルの一室に一歩を踏み込んだ。
 それ以降の記憶は何もない。気付いた時には、右腕を炎で炙られていた。
 眼前に佇む狐の面と、待ち合わせ場所で見たフォックスの服装は完全に一致している。先ほど耳にした声も、ホテルに向かう途中に聴いた声と似ていた気がする。
 つまり、彼女がフォックスで、部屋に入った私を背後から襲い、この椅子に縛り付けた犯人なのだろう。待ち合わせ場所で見せたあどけない笑顔が脳裏に浮かぶ。その彼女が、狐の面で顔を隠し、炎で右腕の皮膚を炙って私を叩き起こした。
 悪夢だと思いたかったが、火傷の痛みがこれは現実だと私に語りかけてくる。
「はい、タイムアップ。それと、ごめんなさい。このままじゃ喋れないですよね」
 フォックスはライターをポケットに入れ、私の口元のテープを右手で勢いよく剥がした。髭が抜ける不快な痛みと引き換えに、口で呼吸することが許される。
 深呼吸を何度かしてから、一つの疑問を口にする。
「お前は一体……、誰なんだ」
 狐の面が、斜めに傾く。
「その質問は美しくないですね。あなたが訊くべきなのは、どうして私が先生だと知っているんだ、なのでは?」
 担任を呼ぶような声色で「先生」と繰り返してから、フォックスは、きゃははと笑った。彼女が何を言おうとしているのかは、すぐにわかった。
 私は、弁護士を生業としている人間だ。他人に先生と呼ばれることには慣れている。しかし、フォックスと出会うきっかけとなったSNSでは、職業は伏せて登録をしていた。それなのに彼女は、私を先生と呼んだ。
「私が誰か、知っているのか?」
「ええ。目覚まし時計替わりに、ライターを使う程度には」
 その言葉を聞いて、戦慄した。
 ライター、炎、火傷……。こいつは、どこまで知っている? 
 まさか、麻衣(まい)から相談を受けた友人が、私に復讐をしているとでもいうのか。そんな現実離れした想像が、頭を支配する。いや、この現状が既に現実とは大きく乖離しているのだ。だとすれば、この想像が真相である可能性も決して否定はできない。
「ちょっと待ってくれ。多分、君は勘違いをしている」
 狐の面が、左右に揺れた。
「勘違いしてるのは、あなたの方です。あなたがどんな人間なのかに、私は興味がありません。先生という呼び方も、ライターの炎も、ただの演出ですよ」
 発言の意図を理解することはできなかった。
 状況を整理しようと辺りを見回すと、更に信じられないものが視界に飛び込んできた。部屋の片隅に置かれたダブルベッドから、何本もの足がはみ出していたのである。
「やっと気付きました?」私の視線の先をフォックスも見つめる。
「そこに、誰が……」
 はみ出している足は、全部で六本あった。素足が二本。スラックスを履いてるのが四本。
 ベッドの向きとは垂直に、つまりはベッドを横切るような形で、それらは並んでいた。ふくらはぎから上は厚手のブランケットで覆われているため、彼らの正体を見極めることはできなかった。
「安心してください。まだ生きてますから。あそこで、順番を待ってもらってるんです」
 まだ、という部分が耳に残った。その先があるというのだろうか。
 フォックスは立ち上がり、ブランケットを乱雑に引いて床に落とした。そこから現れたのは、二人の男性と、一人の少女だった。性別に関しては、服装や体格から想像したに過ぎない。彼らの顔にも、狐の面が被せられていたからだ。
 こちらを向くように並んだ三つの狐の面は、儀式めいたものを連想させた。ここからでは確認できないが、彼らの手足も私と同じように何かで拘束されているのだろう。
「意識を失ってるだけです。先生は、記念すべき一人目の被害者」
「どうやって、これだけの人数を……」
 頭が混乱して、ずれた疑問を投げかけてしまった。
「先生と同じ方法ですよ。時間の調整には苦労しましたけど。男性っていうのは、愚かな生き物ですね。みんな大人なのに、私のクラスメイトと大して変わらない知能レベルなんだから」
 フォックスの素顔をもう一度思い出す。化粧で誤魔化してはいたが、今の発言からして、彼女は高校生なのかもしれない。あるいは……。
「ああ、その子は別です。彼女は、私の協力者」私が考え込んでるのを見て、フォックスは言葉を付け足す。
 ベッドの端に横たわっている少女に視線を向ける。フォックスと同じくらいの背丈に見える。彼女を利用して、他の二人の男性を部屋に連れて来たのだろうか。
 あそこで拘束されている以上、彼女も被害者の一人であることは間違いない。
「何が狙いなんだ。複数人の監禁……、これは立派な犯罪だぞ」
「さすがは先生。犯罪については詳しいんですね」馬鹿にしたような口調だった。
「ふざけるな。金が目的なんだろ?」

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