第17回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み シェイクスピアの子

『シェイクスピアの子』

吉良惟新(きら・いしん)


  序章 魔性の夢

   一

 その視線は宙を這い、目の前に一人の女性を見つめ下ろしていた。
 女性は若く、華奢だ――それぐらいしか分からない。
 全く面識のない人物なのだ、仕方がなかろう。
 そのあかの他人を見下ろす視線は、怯え尽くしている女性の引き攣った表情を射抜く。そうだ、女性は視線の主に怯えている、なぜだろう、全く理解できない状況だ。
 しかし、答えはすぐに視線の元に現れる。
 視線は黒い皮手袋をもたげ、その手には鋭利なサバイバルナイフのような刃物が握られていた。女性はそのナイフに怯えているのだ。
 否、ナイフを持つ視線の主の存在自体に怯えきっているのかも知れない。
 視線は半歩前に進む。
 女性の体躯が壁に一層寄り、逃げ場を失った表情は助命を乞う懇願じみた悲哀に満ちる。それでも構わず、視線はナイフを眼前にかざし、その煌めきが興奮をそそっているのか、皮手袋の指が細かに痙攣する。
 女性の瞳が一杯に見開かれ、目尻には雫が浮かび、走馬灯に巡る人生を思い返しているかのように、虹彩にこれから受けるであろう死への恐怖を浮かべてたじろぐ。
 女性の体躯も痙攣し、唇の端が引き攣り、化粧のない顔を蒼白に染めて壁際に沿わせる。這う視線は、同じく壁際に這う女性をどうして始末してしまおうか、これから起こす人の死という出来事に至るまでの道程を愉しんでいる、そこへ辿り着くまでの昂りへの愉悦、それを目一杯に感じて悦んでいるようだ。
 視線は真正面を向いているが、時間が未明で窓外が漆黒だということが分かる。
 仄かに覚える宵の微風が、まだ暁の温みを有していない、それに、なんの音もしない、まったくの森閑だ、小鳥の遊ぶ声もない、童のはしゃぐ音色もない、唯一感じられるもの、それはしじまに漂う死の臭気と抗いも悲痛な叫びもどこへも届かない、絶望という現実、失意という感情、そのアマルガムだけだった。
 視線はナイフを手に余すところなく死の兆しを愉しみ続ける。自らが目の前にいる女性の生命の限りを握り締めている実際の情景が、とてつもなく美しく神々しい。
 これは現実なのかと視線は瞳を宙から壁に這わせる、紛れもなくこの女性は眼前におり、自らはナイフを手に愉悦を噛み締めている。
 これは素敵だ、素晴らしい光景だ、怯え極まる女性を前に、ナイフを手にした視線の主はこの哀れな淑女をどうとでもできる、裸に剥かせることも、踊り狂わせることもできる、何もかもがナイフを持つ視線の手中にあるのだ。
 女性の生を一手で潰すことができる、死を一挙で招くことができる、信じられない。
 こんなに心昂る出来事があるのか、快い立場に身を置くことが適うのか、素晴らしい。もう絶対にこの命を手放さない、この命は己のものだ。
 ナイフを右手に持ち、左の手袋に幾度も叩き付けては愉悦に浸る。
 恐怖に引き攣る女性の表情が気持ち良くて堪らない、佳人よ、もっと慄け、喘げ、それが愉悦の源となるのだから。
 ナイフを一振り、女性の表情がより一層、恐怖に歪んだ。
 と――視線はマンションの部屋の靴箱前に立ち尽くしていた。
 いつ移動したのだろう。
 あの佳人はどうなったのだろうか。
 視線がまた皮手袋を持ち上げる。
 いつのまにかナイフは去り、銀に輝くジッポーライターを持っていた。
 ライターの焔を灯す。
 徐々に靴箱に近付けていく。
 放火しようというのだろう。
 ではさっきの佳人はもう始末したのか。
 できれば処理するところまで見届けたかった。
 どんな表情で、どうした瞳をして、いかなる血潮を吹き上げて、どれぐらいの喘ぎ声を立ててこと切れたのか、メインディッシュを見逃してしまったのだ。
 惜しい。
 しかし焔は厭わず靴箱へ迫る。
 もうすぐ着火される、全てが燃える、煉獄に消えてなくなる、全ての記憶が、なべての愉悦が、消失する、それを望んで、焔は靴箱を照らし、もうすぐ灯りをくれるだろう。
 終わる、記憶が、愉悦が、カーニバルにレクイエムが奏でられる。
 さあ――今から。
 始まりの終わり、終わりが始まる。

 はっと目が覚めた。
 がばっと跳ね起きる。
 ――また……この夢だ。
 黒いタンクトップをべったりと鎖骨に貼り付ける全身の汗が堪忍ならない。
 すぐにクローゼットに膝で這って行って着替えた。
 ふうっと一息吐き、小さな丸く青いテーブルに寄ってマルボロの煙草に火を点け、ふと思う、自分のライターは百円ライター、ジッポーではない。
 少しほっとした。
 篠崎隼人(しのざき はやと)は二十歳の大学生である。
 最近、こんなおかしな夢を見て目覚めることが多くなっていた。
 怯える女性の前でナイフを弄ぶだの、ましてやライターの焔を人様の家にある靴箱の傍に近付けるだのといった願望は全くない。
 隼人の思考は、犯罪志向とはまるで縁がないのだ。
 だが夢の中にあった視線は明らかに怯える女性にナイフを見せ付ける愉悦に浸り、快楽に酔いしれていた。
 あの視線がもし自らのものだとするならば、隼人にはなんらかの犯罪志向があり、その成就を求めて夢を見ているとも考えられる。
 それでも、非行とは関係のない半生を過ごしてきた隼人は、全く以て犯罪への願望などない、むしろあまねく犯罪というものは根絶されればいいと思っているのだ。
 そんな自分が襲われる側ではなく、ナイフを片手にか弱い女性を脅し、まさに殺そうとする夢を見るのはなぜだろう。
 どう考えても解せない。
 マルボロの灰がぽろりと落ちるまで咥えて考え続けた隼人だったが、自らには理解不能な状況だ。犯罪の火種を自分が有しているとは思えないし、ならばなぜ、あんな夢を見てしまうのか幾ら考えても分からなかった。
 隼人は大分県佐伯市の高校を卒業し、あの年に母校から唯一私学の最高峰・早稲田大学に入学した優等生なのだ、有名な進学校でもなかったので快挙といえる。
 その隼人が殺人という所業を目前に神経を興奮させ、昂らせる夢を見ている、おかしい、頂けない話だ。殺人の意志などないのに。
 もう一本点けた煙草の先から紫煙が昇り、薄い霞となって天井を燻す。
 くゆらせながらもう一度考え込もうとしていると、背中に甘い声がかかった。
 彼女独特の柔らかい声だ。
「どうしたの? 脱ぎ捨ててあるタンクトップ、汗だくだよ?」
 隼人は背後に声だけ放る。
「また……あの夢見たんだ」
 彼女はふと静まり、言葉を探るように呟く。
「……そう」
 裸体にバスローブだけを羽織り、華奢なのに豊満な乳房を覗かせて、下腿もほぼ見えている状態、半裸の彼女は続ける。
「ストレス、あるんじゃない? なんか」
 また紫煙を昇らせて、隼人は唸り、答えを捧ぐ。
「そういうんじゃない、かな」
 また彼女は言葉を選びながらといった感じで小声に呟いた。
「……そう、ならどうしようね」
 隼人はゆっくり間を取って答える。
「分からない、ほんとに分からないんだよ」
 もう一度、彼女は聞こえるかどうかの声で嘆息のように呟く。
「そう……」
 隼人は、同じ早稲田大生の桐野千咲(きりの・ちさき)と同棲している。昨年の十一月からだ、もう七ヶ月になる、付き合い始めたのが九月からなので、異例のスピード同棲だった。それだけ二人には合コンで出会ってからずっと強く通じ合うものがあり、性格の相性も、絡ませ合う日々の肉体関係も、情欲を超越して魂から悦び合える天与の相性があった。
 魂で繋がっている――。
 そうだ魂だ。
 どこかの誰かの魂が浮遊し、たまたま隼人に憑依して変な夢を見させているのではないだろうか。
 それなら、隼人の意志ではない視線の意味も分かるが、余りにも非科学的だ。

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