第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『千億の夢、百億の幻』

『千億の夢、百億の幻』

薗田幸朗(そのだ・ゆきお)60歳
1956年生まれ。大阪府出身。大阪大学大学院工学研究科卒業。
総合電機メーカーにて研究開発に従事。技術士(原子力・放射線)、APECエンジニア(電気)。


     学生時代(1)

 ぼくが初めて時間を止めたのは、高校二年になる春休みに行われた、野球部の練習試合でのことだった。
内角をえぐる鋭い速球を打とうとした瞬間にそれは起こった。時間の粘性が大きくなって、白球が空中に静止した。
 最初は何が起こったのか分からなかった。やわらかな春の陽射しに照らされた白い球体が、シュールレアリズムの絵画のように、宙に浮かんで輝いている。
 不思議だと考える前に、ぼくのからだは反応していた。
 打てる!
 軸足を踏み込み、バットを握る手に力を込めた。
 だけど――ぼくのからだは動かなかった。
透明で濃密な液体に包み込まれたように、目には見えない、しかし、確かな質量を持った何かが、全身の筋肉にまとわりついて、ぼくの動きを阻もうとしていた。
 振り遅れる――。
 満身の力を振り絞った。
 踏み込もうとする左足がゆっくり地面を離れ、体重を乗せてじりじりと前に移動し始める。やがて、腰が回転を始め、上半身が、肘が、バットを持つ手が、重い液体にさからって次々に動きだした。
 ボールとの距離が縮まっていた。
止まっているようにみえたボールは、赤い縫い目を、くるぅーり、くるぅーり、と回転させながら、じわじわと近づいてくる。
内角高めのボール球――。
つり球だ!
この球にチームメイトたちのバットはことごとく空を切った。
手を出しちゃいけない。
今度は必死にバットを止める。
しかし、いちど動き出したバットは金棒のように重かった。
再び満身の力を振り絞った。
止まれぇぇぇ!
全身の筋肉が軋んで悲鳴をあげる。
バットは数センチ動いただけで止まった。
ボールが目の前を通過し、視界から消えた。
その瞬間、金縛りの魔法が破れた。
パアァァン! 
ボールがキャッチャーミットを叩く、乾いた大きな音が背後で鳴った。
ボォール!
審判が大声でコールする。
歓声が沸き起こった。
空気は液体から気体に戻り、ビリビリと震えて音を伝える。
今のは何だったんだ?
物理学の法則がおかしくなったのか――。
いや、そんなはずはない。自分の感覚がおかしくなったんだ。
インパクトの瞬間にボールが止まって見えた、なんて話を聞いたことがあるが、さっきのはそんなものじゃない。確かに時間が止まっていた……。
ふと視線を感じて顔をあげると、ピッチャーと目が合った。
いぶかし気な表情でぼくを見ている。
胸元をえぐる速球を見送ったのは、手が出なかっただけなのか、それともコースを見切ったのか、判断に迷っているのだ。
ピッチャー、ビビッっとるでぇ!
打ったれ、打ったれ!
背後から、左右から、上からも声援が押し寄せる。
校門から校舎に続く満開の桜並木の通路に、校舎の窓に、体育館のベランダに、学生服とセーラー服があふれている。
みんなのお目当ては、いままさにマウンドに立っている相手チームのピッチャーだ。先週終わったばかりの春のセンバツで、甲子園を大いに沸かせた剛腕投手だ。
そんな全国レベルの強豪校が、ぼくたちのような進学校の弱小チームを相手に、わざわざ出向いて練習試合をしてくれるのには訳があった。
相手チームの監督が、ぼくたちの顧問の先生の大学の後輩にあたっていて、どうにも断れないということなのだ。彼らにとっては夏の大会に向けての軽い肩慣らしだが、ぼくらにとっては一年で最も大切な試合が組まれたというわけだ。
なぜ大切かというと、明日に始業式を控えた春休み最後の今日は、新入生向けの学校説明会があって、クラブ活動の紹介と体験入部の時間が設けられているからだ。
強豪校との試合を目の前で見せて、善戦でもしようものなら、入部希望者が押し寄せてくる――。
顧問の先生にそんな目論見があるのは確かだが、ぼくたちは新入生の勧誘など二の次で、トップレベルのチームと戦えることが嬉しくて、真剣勝負で練習試合に臨んでいた。
しかし、気合いとは裏腹に、ぼくたちの実力は相手チームには遠く及ばなかった。
九回裏に入ったところで十一対〇。
六回までは二人の控え投手が投げていたにもかかわらず、ぼくたちは内野安打二本と四球一つに抑え込まれていた。
そして、七回からは超高校級といわれるエースピッチャーがマウンドに立った。明らかに相手の監督のサービスだ。
怪物と呼ばれる剛腕投手は、ぼくたちをバカにするでもなく、ほとんど無表情のまま、たぶん六割か七割程度の力で投げていた。
それでもぼくらは、変化球に泳がされて引っ掛けたぼてぼてのゴロと、直球に差し込まれて詰まったファウルフライを打つのが精いっぱいで、あとは伸びのある速球で三振に切って取られていた。
打ちたい!
いや、絶対に打つ!
 ヒット一本でいい。
 先頭バッターとして塁に出て、送りバントでも、盗塁でも、エラーでも、何だってかまわない。
本塁まで帰って、一点をもぎ取ってやる。
 ピッチャーが振りかぶった。
 ぼくは白い球だけに集中した。
 そして、同じことが起こった。
 ボールはマウンドとホームベースの中間で唐突にスピードを失い、重力がなくなったように空中に止まった。
空気は気体から液体へと相転移を起こし、密度が何十倍にも増して、音は低周波振動のような低い唸りに変わった。
 今度は起こったことを冷静に観察していた。
 コースはやや外寄り、低めのストライク。
 逆らわずに右方向へ――。
 一球目とは回転が違うことに気が付いた。
 くるぅーり、くるぅーり、じゃない。クルクルッ、クルクルッと、赤い縫い目が斜めに空気を引っ掻きながら迫ってくる。
 外角低めに逃げる変化球だ!
バットが届かずに空振りするか、無理やり当てにいって内野ゴロになるか、どちらかしかない。
ボールは予想どおり、大きな弧を描く見えないレールの上を滑るように、低く遠くへとストライクゾーンから逸れてゆく。
バットは構えた位置からピクリとも動いていない。
ボールがキャッチャーミットにおさまるまで、ぼくはその行方を見届けた。
再び時間が動き出す。
審判がボールをコールする。
どっと歓声が上がった。
ピッチャーの顔に驚いた表情がよぎった。
コースも球種も完全に見切られたと気づいたのだ。
甲子園のマウンドで見せた、バッターの心臓を射抜くような厳しい目つきに変わった。
どよめきが起こる。
声援は最高潮に達し、叫び声となって飛び交う。
しかし、ぼくの耳にはもう何も入ってこなかった。
ぼくのすべての神経は、マウンドからぼくを睨みつける目に集中していた。
その目がニヤリと笑った気がした。
勝負だ――。
グローブを青空に突き上げ、足が高く上がる。
ピッチャーは鍛え抜いたからだをギリギリと捩じり上げ、しなる腕を鞭のように振り抜いて、蓄積したエネルギーをボールに凝縮して一気に解放した。
いままでのピッチングは肩慣らしに過ぎなかった。
剛速球が迫る。
濃密な液体と化した大気を引き裂き、流れ星のように空気の渦の尾をひいて、白い球体が迫ってくる。
内角高めのストライク。
力でねじ伏せるつもりだ。
ぼくのからだは精密機械のように反応していた。
全身を包む高密度の物質の抵抗に逆らって、踏み出した足に体重を乗せる。腰の回転で捻じられた上半身に引っ張られて、腕が、手が、そしてバットが動き始める。
ボールは内角高めいっぱいのコース上で止まって見える。
打てる!
打つ!
腕をたたみ、コンパクトに振って、ボールを上から叩き潰す。
渾身の力をバットに込めてボールにぶつけた。
確かな手ごたえと、カン高い金属音が響く。
そして、フォロースルーは大きく――。
その瞬間、全身の関節が壊れ、筋肉と腱が裂ける、ブチッという鈍い音が聞こえた。
体中を激痛が貫く。
歓声が爆発した。
ぼくのからだも爆発した。
白いボールは風に舞う桜の花びらを蹴散らして、レフトの遥か頭上の青空に吸い込まれてゆく。
ホームラン――しかも、場外だ。
一塁に向かって足を踏み出そうとしたが、焼けるような激しい痛みに襲われた。
膝が体重を支えきれずに崩れてゆく。
世界がぐらりと傾き、地面がせりあがってきて、ぼくの頬を激しく打った。
衝撃で視界が揺れる。
一瞬、意識が遠のく。
景色が九〇度回転し、地面が垂直に立っている。
歓声が消えた。
地面と平行に並んだみんなの目が、ぼくをじっと見つめている。
口の中にグラウンドの乾いた砂の味が広がり、頬を撫でる風はかすかに甘い春の香りがした。

つづく

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