第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『青空作戦』

『青空作戦(オペラスィオン・アズュール・セウ)』

宮本豊司(みやもと・とよじ)50歳
1967年生まれ。会社員。


第一章 溢るる衝動

「豪雨が来るな。急ごう、ノア」
 夏川小春は、空に鋭い視線を照射した。
 ブラジル東部の港町、サントスは乾季だが、毎日のように凄まじい豪雨が降る。
 東の空に湧き上がった悪魔を連想する真っ黒な雲から、灰色のカーテンがびっしりと、ぶら下がっていた。
 西の空には、焼け爛(ただ)れて溶けていくような真っ赤な夕陽が沈んでいく。
 不思議な対象の光景も、ブラジルの日常だ。
「サントス港まで早足で十五分。追い付かれるな。小春、やりすごそう」
 小春のGurda(ボディ)‐(・)costas(ガ-ド)のノアは、明るい笑顔を作った。そこで小春は東の空を指鉄砲で撃った。
「今日は朝から、ずーっと、ぶっ通しで打ち合わせだった。早く船に乗って、足を伸ばしたかったな」
 悪魔は、モクモクと膨張しながら、速度を上げ、向かって来ていた。
 二人は、煉瓦造りのコーヒー取引所の軒下に避難した。
 通り過ぎる男たちは、一様に、じろじろと、二人を舐め回すように見ていた。
 小春は、脚のすらりとした、颯爽(さっそう)たる長身。小顔で、目鼻立ちがはっきりしていた。青空を背に輝くブラジルの国花、イペーのような明るい笑顔が印象的で、身体全体から情熱の気が迸(ほとばし)り出ていた。
 小春は、孤児の自立支援を生業(なりわい)とする市民団体《七夕に舞い降りた天使》を主宰していた。本拠地はアマゾンの中流都市、マナウスに在る。首都のリオデジャネイロ、サンパウロ、レシーフェ、ベレン、サンタレンにある、百カ所以上のcrianca(ストリート) de(・) rua(チルドレン)を支援する市民団体と提携していた。
 ノアは、小柄で華奢に見えるが、鋼(はがね)の筋肉で全身を包み、獲物を狙うジャガーのように躍動感に溢れている。吸い込まれるような青い目と、艶(つや)やかなブロンドの髪が特徴だ。
 ノアは、ユダヤ人の特殊部隊ハガナーの出身で、権力と闘う者たちを支援する一匹狼の傭兵だ。たった一人で、仕事を請け負い、世界中の戦地を転戦してきた。
 子供の奴隷労働からの解放と、孤児へ教育を届ける事業に命を懸ける小春に魅了され、数年前から、小春の専属のボディ・ガードを担っていた。
 雷鳴が近くで轟き、悪魔の手が一気に覆い被さってきた。石畳の道に叩きつけられた雨粒が跳ね返り、白い煙を巻き上げていた。
 近くにいるノアとも、大声で叫ばないと、会話が通じないほどの轟音に包まれた。
「何やら、騒がしいな」
 並外れた聴覚を持つ小春には、街角の彼方此方(あちこち)で湧き上がる怒声が聞こえていた。
 ノアも何かを感じ取ったようで、緊張した面持ちに変わった。
「助けてくれ!」と叫ぶ日本語が聞こえた。
 近くの路地から白く煙る通りに、男が飛び出してきた。
 男に続いて現れた複数の影が、男を取り囲み、棒で滅多打ちにした。
「おい! 何をしている!」
 小春は反射的に通りに飛び出した。影が小春のほうを向いた。
「日本人(ジャポネーゼ)! 日本人(ジャポネーゼ)だ!」と影の一人が叫んだ。男を叩きのめした影たちが、ぬくっと立ち上がった。
 小春が落ち着いて身構えると、ノアが、すっと小春の前に立った。
「日本人! 日本人!」
 今度は後方で声がした。振り向くと、棍棒を持った影たちが、通りに壁を作っていた。
「小春、とにかく逃げよう。街全体を敵に回したようだ」
 ノアの提案に小春は頷きながら、一年前のベレンの事件を思い返した。
 一九四二年八月、アマゾン河口の都市、ベレンで、ドイツの潜水艦がブラジル客船を撃沈し、多くの死者が出た。
 怒って暴徒化したブラジル人が、日独伊の枢軸国の移民を襲撃した。ベレンの日本人は、着の身着のままで官憲の保護の下に、移民収容所に収容された。
「やっちまえ!」と後方の影の叫び声を合図に、雨音の轟音を掻き消すほどの怒声が、襲って来た。
「こっちだ! ノア」
 小春は、ノアの腕を掴み、石畳の細い路地に駆け込んだ。小春は走る速度を緩めず、迷路のように入り込む路地の石畳を蹴った。
 豪雨が、細い路地にも容赦なく降り注ぎ、彼方此方にできた水溜(みずたまり)の上で、無数の白い矢がダンスを踊っていた。
「日本人! 日本人!」と、仲間に知らせるように、怒声が追い掛けてきた。五人ほどの男の息遣いが、小春たちに迫っていた。
「小春、危ない! 上だ!」
 ノアの叫びに反応して、視線を上げた瞬間、目の前で植木鉢が木端微塵(こっぱみじん)に割れた。破片は両側に立つ家の壁に当たり、散乱した。
 頭上の窓から投げつけられた植木鉢が小春に命中する直前に、ノアが壊してくれたようだ。
 走り続ける二人の激しい息遣いが、両側の壁に跳ね返り、耳元で鳴り響いた。
 前方の曲がり角から、棍棒を持った男が飛び出してきた。小春たちを認めると、叫び声を上げて向かって来た。相手は二人だ。
 小春は躊躇せず、走る速度を上げた。
 先頭の男は、狂気の表情を顔面に貼り付けて、棍棒を小春の顔面に振り下した。男の動きより一瞬早く、小春は掌底(しょうてい)を男の鼻に叩き込んだ。
 崩れ落ちる男の背後から、長い棒が小春の顔面に向かって突き出た。小春は男を飛び越え、踏み出した。
 棒先が頬を掠めた。棒に沿うように突き出した左の掌底が、後方の男の顎を捉えた。顎の当てる瞬間、小春は掌底で顎を抉るように押し上げた。
 ぐしゃっと鈍い音を立てて、男の顎は砕けた。当てる瞬間、掌底を反時計回りに捻る工夫で、何倍にも重力が増す。
 琉球空手の達人の小春にとって、力任せに棒を振り回す男たちは敵ではない。
「おいおい、小春。私があなたの用心棒なのよ」
「すまない。ノアの仕事だったな」
 二人は、軽口を叩きながら、走り続けた。後方から迫って来る男たちの息遣いも聞こえなくなった。
 路地を駆け抜け、ペケノ海沿いのジャパン通りに出た。
 幸い、暴徒はジャパン通りには見当たらなかった。
「小春、何か事件が起こったんだろう。早いところ、サントスを出たほうがいいな」
「きっとドイツの潜水艦が、ブラジル客船を撃沈したか何かだろう」
 ノアは黙って頷いた。視界不良の中、左右に首を振って、逃げる方向を見定めていた。
 コーヒー取引所が立ち並ぶコロニアルな街並も、灰色に燻(くす)んだ刑務所のように、見えた。ジューニオル通りから、激しく水飛沫(みずしぶき)を巻き上げながら、フォードがジャパン通りに入ってきた。
 ノアが咄嗟に、道の真ん中に飛び出して、両腕を大きく振った。
 フォードが車体を覆うほどの水飛沫を上げて、止まった。
「なんだ! どうしたぁ!」と、窓から顔を出した男が叫んだ。
 日本人だった。焦っている様子が、表情から窺えた。
「助けて! 暴徒に追われているんだ!」と、小春はフォードに駆け寄った。
 男は安堵の表情を浮かべた。車を止めたのが日本人だと認識したからだろう。
「早く乗れ! 俺たちも追われている」と男は、後部ドアを指さした。
 豪雨は更に激しくなり、サントスの街並は、霧に包まれたCidadefantasma(ゴーストタウン)のように見えた。

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