第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『カーリーマー』

『カーリーマー』

七條幸(しちじょう・ゆき)36歳
1980年生まれ。大阪医師会看護専門学校卒業。卒業と同時に正看護師免許を取得。現在は臨床を離れ看護教員として働いている。


「先生、『カーリーマー』って知らないの? ヒンドゥー教の神話にある破壊と殺戮の女神だよ。カーリーマーは世界の破壊の神であるシヴァ神の妃、慈愛に満ちたパールヴァティーの血と暴力と殺戮を好む一面って言われてるんだよ。一人の妃の中には他にも凶暴な一面を神に象ったドゥルガーっていう三神が一体となっているって考えられているんだ。何だか…凄く人間的で素敵だと思わない?」

                             ~本文より~

      プロローグ  2010年

僕の鼻にはまだ河野の柔らかくて…甘いような匂いが残っている。
 …どうしてなんだろう。
  僕はふと、さっきまで急に降り出した雨に濡れていた真っ暗な夜の空を見上げた。十二月の夜は肌に刺さるような冷たさだった。空には厚い雲だけがゆっくりと流れていた。
  …最後に満月を見たかったのになぁ。
  僕は今日が満月なのかも確認してなかったのに、何となく満月なんじゃないかと思って……笑った。
  静かな夜で、目の前には僕の家のリビングの明かりが見えているのにまるで世界に僕だけになってしまったような錯覚を覚えていた。
  …河野。
  そう…僕には河野しかいなかったんだ。河野以外の人間なんて…お母さんもお父さんもお兄ちゃんもクラスの奴らも畑村たちも僕には見えない。僕のことも他の奴らには見えていない。僕は河野に出会うまでずっと独りぼっちだったんだ……小さい頃にはあんなに輝いて見えていたこの世界には…いつの間にか僕と河野しかいなくなってしまった。
  …なのに。
  河野も僕の前からいなくなってしまった。
 「君はどうしようもないくらい愚かな人間だよ? 自分でも分かったんじゃない? こ
こで君を救ってあげようと思うんだ。どうだろう? 要らない? 僕の救いは必要だろ? 違う? 君を……西本哲也くんを僕は救いたいんだ。さぁ?」
 河野の言葉が頭の中に溢れ出す。
 僕は静かに河野が用意してくれている黄色い三重に掛けられた細いロープに腕を上
げて触れた。小さな頃、このジャングルジムにいったい何回上っただろう……あの頃、ジャングルジムの一番てっぺんに立って色んな事を想像出来た。僕の世界は眩しいほど
に輝いていて、それは根拠も何もなかったはずなのに…ずっと続くと思っていた。
 …僕は。
 僕はいつの間に僕になったんだろう。
 あの頃の僕が今の僕を見たら、きっと「君は僕じゃない」って笑うだろう。そんな風
に想像して僕はまた薄く笑った。
 冷たいジャングルジムの少し塗装が剥がれた鉄棒を掴む。久しぶりに上るジャングル
ジムの鉄棒が僕の土踏まずを押し上げて軽い痛みを感じた。
 二段ほど上ると、ちょうど僕の顔の前にロープがあった。
 …さすが河野だなぁ。
 僕の身長に合わせるように絶妙な高さにロープを括り付けているあたり頭のイイ河
野らしいと妙に感心して、また僕は自然に笑った。
 まだ鉄の棒にしがみ付くようにしながら……そう、まるでこの世界にしがみ付くよう
にしながら……僕はまた夜空を見上げた。
 …あぁ。やっぱりな。
 その時……雲に切れ間が出来た。その間からまん丸な月が僕を照らした。
 僕は溢れそうな涙が流れてしまう前にロープに……自分の首を通した。

  
      一  2010年 ➀

 河野と初めて会ったのは中学一年の夏休みの事だった。
 僕のお父さんはお祖父ちゃんの代からの農業を継いで、野菜を作り続けていた。そん
なお父さんの事が僕はいつも嫌いだった。毎日のように畑に向かい、お母さんが持たせ
たお弁当を食べて、夕方決まった時間に帰って来る。
  …何が楽しいの?
 中学校に上がると、僕はそんなお父さんの人生が凄くつまらないように見えて、ち
ょっと……バカにもしてた。
 だって、お父さんは大学を出てまでなりたかった宇宙飛行士になる夢を諦めてまで
お祖父ちゃんの畑を守ってる。
 本当に頭のイイ人間がすることじゃないと思ってた。毎晩のように小さかった僕と
お兄ちゃんに天体望遠鏡を覗かせては、目を輝かせていたお父さんはあの頃の僕には凄
く賢い人に写っていた。夜空を見上げながら星座にまつわるギリシャの神話を話してく
れていたお父さんはいつの間にか望遠鏡を屋根裏に仕舞ってしまった。
僕はお父さんみたいにはなりたくない。
そんな風にいつの頃からか思うようになってしまった。
  間違いだったのかも知れない……と、思う。
  僕は僕をあの頃見失ってしまったんだと思う。
  僕がいつものようにお父さんの畑の手伝いをしていた夏休み。
  いつものように……そう、いつもと同じ日だと思っていた。
  その日も昼過ぎまでお父さんが収穫した夏野菜の胡瓜なんかを網籠に詰めて汚い軽トラックの荷台に乗せるのを手伝った後、いつも行く農協じゃなくてお父さんは違う場所に軽トラを走らせていた。
 「どこに行くの?」
  僕が訊くと「ちょっとな」ってお父さんが前を向いたまま言った。
  僕は揺れが酷い軽トラにちょっと酔いながら目を閉じた。
  …遠くに行きたいな。
  僕はその時……中林と畑村の事を思っていた。

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