第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『伊藤杏寿、顛末』

『伊藤杏寿、顛末』

宮ヶ瀬水(みやがせ・すい)26歳
1991年生まれ。大学卒業後に執筆を開始し、現在に至る。


この物語において、以下の条件を真とする。
 「この世には心霊現象が存在する」

 杏寿、三歳
 夢を見ていた。暗闇の中、走り続ける夢だ。四方八方、どこを見ても塗り潰されたような黒しかない。幼い杏寿にはまだ、その意味は分からない。ただ、苦しく、悲しく、辛く、そして怖かった。すがるものはなにもない。どこへ向かえばいいのかも分からない。ただ、ひたすらに走るだけ。
 杏寿はうなされ、泣いた。自分の知らないなにかが、自分の内側にある。この世には分からないものに対する不安と恐怖があるのだということを、初めて知った。誰かにすべてを操られているような気持ち悪さが、ずっと身体中を支配していた。

 杏寿、五歳
 自分はゆうこだった。言葉や感情、世の中の事象を理解できるようになるにつれ、そう思うようになった。いまは「いとうあず」だが、昔は「かみやまゆうこ」だった。昔の記憶を夢で見る。起きていても、ふと思い出すことがある。自分は杏寿になるずっと前は、ゆうこだった。
 自分の人生には、前がある。それが本当なのか、周囲の大人たちに事実を確認してみたくなった。大人なら、なんでも知っていると思っていたからだ。しかし結局、杏寿は誰にも、なにも言わなかった。なんとなく、これは自分だけの秘密にしておいた方がいい気がする。なぜか分からないが、そう思った。
 ゆうこの記憶があるせいで、杏寿は同じ月齢の他の子よりもかなり大人びていた。父親は仕事が忙しく、杏寿の異常に気づかない。家政婦は扱いやすく仕事がしやすい子だと、彼女のことを気にも留めなかった。
 ある日幼稚園で、椅子の上に乗って遊んでいた男の子が下へ落ちそうになった。床をめがけて落下していく後頭部を守るため、杏寿は咄嗟に自分が下敷きになった。その時、手首を床に突いてしまい、骨にひびが入った。
 杏寿は泣いた。大人たちは手首の痛みのせいで泣いているものと思っていたし、実際に痛みはかなりのものだったのだが、泣いたのはそれが原因ではなかった。男の子が落下するのを目撃した瞬間、頭の中に声が響いたのだ。自分を犠牲にして彼を助けよ、と。誰の声なのかは分からない。金属がこだまするような、ぼわんとして掴みどころのない声だった。ただひとつ、はっきりと理解したことは、自分はこの声に逆らうことができないということ。声は自分の中から響いてくるもの。この声は、自分自身。脳が脊髄を通して運動神経に命令するように、声は杏寿の身体を従わせる。絶大な力をもって。
 声は、普段は鳴りを潜めていた。聞こえてくるのは他の誰かが危険な目に遭っているのを見た時だと、杏寿は次第に気づいた。
 それと同時に、杏寿は自らの命が他の命に比べて劣っているものだということを認識した。声がそう言ったのだ。「愛されない子は、いらない」、「要らない命は、ほかの者のために使われるべき」、「おまえが死んでも、どうせすぐ生まれ変わるのだから」。
 だから助けよ、自分を犠牲にしてでも。
 声はあらゆる表現で杏寿の死を促した。それも、「誰かを助けるために死ぬ」という、自己犠牲的な死を勧めてくる。生きたいと願う生物としての本能と、しきりに語りかけてくる謎の声は、しばし杏寿の内側で激しく衝突した。そんな時、杏寿はどうしようもなくなって動けなくなる。頭で必死に生を願わなければ、簡単に死んでしまいそうだった。

 杏寿、九歳
 前世の記憶は薄く、靄がかかったように曖昧だ。しかしこの頃にはもう、杏寿は自分の運命を知っていた。きっとこの先も、声に苛まれ続ける。そして、いつか声に負けて死ぬ。
 人生の細部までをはっきりとは知れないが、自分の人生の前に生きていた者たちのことははっきりと認識していた。ゆうこが死んだ後、杏寿になる前に、もうひとりの人生があったことも思い出していた。みずなという少女だった。
 声は相変わらず続いている。しかも、だんだんとエスカレートしてきているのを自覚していた。事故を目撃した時。誰かが命に関わる怪我をしそうになった時。この間など、学校のうさぎが男子に虐められているのを見ただけで声が響いた。
 自己犠牲を払って誰かを助けなければいけないという強迫観念のような衝動は、歳を重ねるごとに強くなっていく。杏寿は自分に必死に言い聞かせた。
 死んではいけない、死んではいけない、死んではいけない。
 それでも声は容赦なく杏寿に死を勧めてくる。なぜ自分だけがこうなのだろう。なぜ前世の記憶が自分の中に残り続けているのか。なぜ声は自分を殺そうとしているのか。

 杏寿、十二歳
 中学生になった。木綿子と水奈の記憶は相変わらずぼんやりとしているものの、前世のことが少しずつ分かってくる。
 二人とも、家族と疎遠だった。杏寿の家も父親が仕事で忙しく、杏寿とはあまりふれあいがない。生まれ変わった原因に、この共通点は関係があるだろうか。
 それから、誕生日が三人とも二月十七日だというのも分かった。毎年、誕生日は憂鬱だ。自分が生まれてきた事実に、喜びを見出せないから。
 そしてもうひとつ、分かったことがある。木綿子は十二歳、水奈は十九歳で死んだ。どちらも不幸な死に方だったが、特に木綿子の死に方はひどく、初めてその記憶を思い出した時は、胃酸が逆流するような不快感に襲われた。十代にして不幸な死を遂げた二人を考えれば、思考はひとつの方向に行き着く。
 今年、杏寿は十三歳になる。家族関係に恵まれないというのが、木綿子、水奈、杏寿の共通項。誕生日が同じなのも、共通項。では、早死になのは、どうだろう。こちらも生まれ変わりの辿る運命だというのなら、自分はいつまで生きられるのか。
 死にたくないと思った。まだ伊藤杏寿を終わらせたくない。幼い頃から前世の記憶と謎の声に悩まされ、楽しい記憶はほとんどない。この世からなにも得ず、なにも残せない。このまま死んだら、果たして伊藤杏寿の意味とはなんだったのだろうか。
 杏寿は決意した。探そう、生まれ変わりを止める方法を。そして今度こそ幸せな人生を送り、静かに死んでいきたい。

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