第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『完全予測棋譜』

『完全予測棋譜』

倉橋省吾(くらはし・しょうご)53歳
1964年生まれ。地方公務員。大学卒業後、メーカー勤務を経て現職。


第一章

街灯の柔らかな光が、深夜の街を穏やかに照らしていた。夜明け前に降り始めた雨は、いつの間にか上がったらしい。窓越しに見える風景の中に雨粒は見えなくなっていた。
将棋協会の常務理事である片岡俊英は、執務用の机に乗せた書類に視線を戻した。蛍光灯の決してまぶしくはない光が、他には誰もいない事務室の中を照らしていた。
壁に掛けられた時計の針は、もうすぐ縦に二本並ぼうとしていた。さしあたっての当日の事務仕事が、ようやく片付いたところだった。様々な大きさの書類や資料を揃えるには、それなりのてこずりもあった。加えて、提出された書類のほんのわずかなミスも受け入れることができない自身の几帳面さも、多分に影響していた。
ゆっくりと首を大きく二度回した。首筋の凝りがのばされ、静かな部屋の中に小さく音を立てた。執務用の事務机から立ち上がり、上着を小脇に抱えた。消灯したことを確かめ、ひっそりした廊下の上を奥のエレベータへ向かった。
「ご苦労様です」
不意に背後から呼びかけられた。
 よく知った声だった。軽く驚いて、ゆっくりと振り向いた。他に誰かが残っているとは、全く思ってもいなかった。
 現将棋協会会長の、奥村哲司が立っていた。双方で簡単な慰労の挨拶を済ませると、奥村が依頼した。
「時間の融通が利くなら、明日の午後に、一緒に聞いてもらいたいことがあるのですが?」
昵懇の間柄ゆえに、声の中にある、ほんの微かな緊張が片岡には感じられた
「ここ一週間は対局も組まれていませんので私は構いませんが、……協会のことでしょうか?」
「いや、そうではないのですが……」
 いつもは明快な奥村にしては珍しく、やや曖昧に言葉を濁した。
かつて二十歳前後の若さで、神速流と異名をとるほどの驚異的な終盤力を武器に、奥村は颶風のごとく棋界を席巻していた。瞬く間に棋界最高位たる名人位まで上り詰めた。畏敬を込めて『鬼哲』とも呼ばれた希代の棋士も、現役のまま、もうすぐ還暦を迎える年齢になっていた。その眼光紙背に徹す、とまで対局相手に言わしめた鋭いまなざしも、今は相応に穏やかさを増していた。順位戦のA級は既に退いていたが、変わらぬ実直な人柄から内外より多くの支持を受け、棋界の中心的な棋士であることに変わりは無かった。
 片岡が承諾し、予定時間が告げられた。軽く頭を下げ、奥村は会長室へ戻っていった。 
 奥村を年長者として、一回り以上の年齢差があった。互いに現役のプロ棋士である。将棋盤をはさめば、全霊を賭けて倒さねばならぬ敵だった。一方で、十年来の刎頸の交わりを結ぶ仲でもあった。奥村が会長職につくと、後を追うように片岡は理事に就任し、半ば職務を補佐する秘書のような立場に就いていた。京都にある旧一期校の大学出身という、プロ棋士としてはかなり特異な経歴が片岡にはあった。実務にも明るく、能吏振りをいかんなく発揮していた。
会長職という重責からの、慢性的な消化器疾患なのではないかと思われる兆候が、ここ数年の奥村にはあった。片岡が気付き、軽い安定剤の服用によって心身の安定を図るように勧め、医師になった大学時代の友人を紹介したりもしていた。
その片岡をしても、奥村の歯切れの悪い物言いは気になった。

 翌日、二人は並んで会館の廊下を、会長室に向けて歩いていた。
奥村が抱えている上着のポケットから、紙片らしきものが滑り落ちた。片岡が気付き、拾い上げた。上部に日付らしき数字の列が、下には将棋の局面図と一連の棋譜記号らしきものが書かれているのが見えていた。
「会長、落とされたのでは?」
 やや戸惑ったように礼を述べ、谷村が紙片を受け取りかけた。
「神谷名人の棋譜を、会長も検討なさるんですね」
紙片が手に渡る前に、何気なく片岡が呟いた。先程わずかに見えた局面図は、先の名人戦で現れたものだったと認識していた。しかし奥村は、とても驚いた顔をした。
 困惑した声で尋ねた。
「今の局面図は、この間行われた神谷名人と森田棋王の、名人戦第四局の最終盤のものですよね?」
 プロ棋士であれば当然知っている事柄であろう、という問いかけだった。顔を見すえたまま、しばらく奥村は何も言わなかった。表情には、明らかに別のことを意図していたのだという思惑が読み取れた。
「よく、勉強していますね」
紙片を受け取り、内ポケットに仕舞い込んだ。一連の仕草に、片岡にはどこか釈然としないものが残った。

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