第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『化生人形』

『化生人形』

川路謨(かわじ・あきら)54歳
1963年生まれ。短期大学卒。会社員。


  序章

闇の中から、堅川の水音だけが響いてくる。
針のような三日月が雲間から顔を覗かせたが、地上は真っ暗なままだ。
風が吹いてきて、川沿いの柳の枝をざわざわと揺らせた。
我は今、夜風にそよぐ柳の下にたたずんでいる。
そろそろ四つ(午後十時)になる頃であろうが、ここを通るはずの男はまだ現れない。
今夜の取り立ての相手とは碁敵で気安い間柄と聞いているから、男はたぶんひとりで現れるはずだ。そういう相手のところへ供の者を連れて行くのは鬱陶しいらしい。
案ずることはない。男は必ず来る。
高揚感が徐々に身体を満たしてくる。こんな気持ちは何日ぶりだろう。
しかし先だっての相手の断末魔は、見苦しいことこの上なかった。
 一撃で心の臓を貫いたはずなのにすぐには死なず、もはや声を発することもできない口をあたかも命乞いをするようにぱくぱくさせていた。血にまみれた手をこちらに伸ばして震えるさまは、未練たらしく生にしがみつこうとする醜悪さそのものだ。
自分がひとりの女を死に追いやったことは重々承知しているだろうに、浅ましくも己の命にはそこまで執着するのだ。
思い出すのも汚らわしい。
それに引き換え、あのお倫という女の訴えには人生そのものの重みと真摯さがあった。だからこそ、捨ててはおけぬと思ったのだ。
 ――小磯は心根の優しい子で、一途に若旦那に尽くしていましたよ。それなのに身ごもった途端、あの男は手のひらを返したように、あの子を疎んじ始めたんです。見かねたあたしが仲を取り持とうとした時だって、『誰の子かわかりもしないのに、責任を取る義理はないよ』なんて薄情なことを……そればかりか酒に酔って『おまえ、本当は私の店の身代がほしいんだろう。ゆくゆくは松前屋のお内儀におさまろうなんて、大それたことを考えているんだろう。恐ろしい女だねえ。ええい、触るんじゃないよ』。怒り狂ったあの男に腹を蹴られて、大事な子供は流れてしまった。小磯はね、若旦那にすべてを捧げてたんだ。無理をしてお金まで貢いでいたんですからね。あげく、あちこちに借金をこしらえてやつれ果てた小磯は……どうかお願いです。あたしの寿命を縮めてもいい、人の皮をかぶったあのけだものを呪ってください。重い罰を与えてください、お願いです。 
 女は声を殺して泣いた。

緑町のあたりに、待ちかねた提灯の明かりが現れる。
やはりひとりだ。提灯は川沿いの道をこちらへ向かってやってくる。
我はゆっくりと刀の鞘に手をかける。念のため、半町(約五十五メートル)あたりまで近づいた提灯の家紋を確かめた。間違っても、罪のない者に天誅が下ってはならない。
われ知らず笑みがこぼれる。
さて今夜の男は、少しはましな末期を拝ませてくれるのだろうか。

  第一章

      一

 山崎屋利左衛門の死体が二ツ目之橋のたもとに浮かんだのは、七月も終わりに近づいた蒸し暑い朝のことである。
 陸に引き上げられ、筵の上に横たえられた利左衛門の顔は青黒く変色し、いまだ苦悶の表情を浮かべていた。
「こりゃ、ひでえな。あばらが断ち割られてらあ」
 死体の上にかがんで何やら仔細に調べているのは、本所一帯を縄張りにしている岡っ引である。
「徳兵衛長屋の甚八か。朝っぱらからご苦労なことだな」
 小銀杏髷に朱房の十手を差した三十代後半の定廻り同心が、人垣をかき分けながら声をかける。
「これは、松井の旦那」
 甚八は立ち上がると、腰を低くして礼をした。
「死人の身元はわかったのか」
松井伝四郎はにこりともせず、いきなり本題に入る。
「へい。調べるまでもありやせん。松坂町の高利貸し、山崎屋の主人で利左衛門っていう者です。取り立てが厳しいって噂で、本所じゃ知らねえ者はねえ因業じじいですぜ」
「仏を悪く言うのはよせ」
 松井は、苦笑してたしなめる。
「へへ、すいません。いま手下を二、三人、山崎屋へやっていますから、店の者に知らせがてら、いろいろ事情を聞き込んでくるはずで」
 口は悪いが手回しはよい。
「それにしても、下手人は相当の手練れだな」
 松井は目を細めた。
 利左衛門は五十代半ば、鬢に白髪は交じるものの体つきはがっしりしている。甚八も仕事がら時おり顔を合わせるが、持病などもなく頑健そのものであった。若いころは町道場で木刀を振るっていたこともあったという。
 にもかかわらず、死体は左肩から右脇腹にかけて、一刀のもとに切り下げられているのだ。
「へい。実際に殺しのあった場所を突き止めて、店の者らの話とも突き合せなきゃなりませんが、下手人は昨夜あたり利左衛門をどこかで待ち伏せしていて、やってきたところをいきなり斬り捨てたのではないかと」
「背を向けて逃げるひまもなかったということか」
 甚八は頷いた。
「あともう一つ。こいつは物盗りの仕業じゃありませんや」
 そう言って、松井に濡れた財布を差し出した。死体の懐にあったもので、ずっしりとした重みがある。
やがて検死が始まると、二人の会話は打ち切られた。

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