第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『カグラ』

『カグラ』

くろきとすがや 54歳、51歳。
1963年生まれ、広告会社勤務と
1965年生まれ、フリーライターの二人組


 1 

 山際教授の研究室に呼ばれて行くと、昔の恋人がいた。失意の私を見限り、後足で砂をかけるようにして去った女である。来客用のテーブルについて、分厚いファイルをめくっていた。
 彼女が、新たな災厄をもってきたことは直感できた。少なくとも、幸福の女神ではありえない。
 私は、即座にきびすを返した。
「失礼、間違えた」
「この部屋で、あってますよ」
 女が呼び止めた。
 振り返ると、大きな瞳がこちらを見上げていた。茶色の短い髪、まっすぐな鼻筋、グロスが光る薄い唇。名前は里中しほり。聖観音を思わせる顔だちが、羅刹のような本性を隠している。
「山際先生がいらっしゃらないなら、出直します」
 私は軽く手をふった。
「待ってください」里中が腰を浮かした。
「私がお願いして、安藤先生をお呼びしていただいたんです」
「なるほど」
「どうぞ、こちらへ」
 里中が両手を広げて、向かいの椅子に座るようにうながした。
 私は浅めに腰掛けて、よく知った研究室のなかを見回した。その動きを察して里中が説明した。
「山際先生は、学長からの急な呼び出しで席をはずされています」
 そして、「お久しぶりです」と名刺を差し出す。『農林水産省消費・安全局 植物防疫課課長』とあった。肩書きがまた改まったようだ。彼女は私よりも三級ほど年次が下で、しかも官庁では冷遇されがちな技官だ。異例のスピード出世といえるのではないか。
「こちらは相変わらずだ」
 里中が、昔のことがいっさいなかったかのように振る舞っているので、私もあわせることにした。
 自分の名刺は取り出さなかった。
 彼女も半永久的に「特認助教」と固定されている私の役職には興味ないようだった。黒い革のバッグから、タブレットをだすとパスワードを入れて画面を光らせた。「本来なら山際先生をお待ちすべきでしょうけど」里中の指がせわしくタブレットの表面を動く。「お忙しい安藤先生のお時間を無駄にするわけにもいかないので、さっそくですけど本題に入りましょう」
 お忙しいのは自分だろう、と皮肉な思いで彼女の動きを見守った。
 やがて植物の写真が映しさされた画面を、こちらに見せた。
「画像を何枚かご覧いただきたいんですけど」
 彼女が手を動かすたびに、画面上の写真が切り替わった。右手の中指にわずかにペンだこの名残りがあり、真面目な受験生時代を彷彿とさせる。三歳からピアノを習っており、ショパンの英雄ポロネーズを軽やかに引きこなす指でもある。理知と情熱が、その手先には宿っている。とりわけ夜には情熱的になる。
「どう思われます?」
 里中の声が、私を感傷から引き戻した。
「トマトだな」
 写真は、まぎれもなくトマトの栽培種を写したものだった。ただし本来は緑色であるべき葉や茎が、まるでポインセチアのように真っ赤になっている。
「あまり見たことのない色だ」
「九州地区で発生している原因不明のトマトの病変です」里中がいった。「成長が著しく阻害されています」
「矮化障害か」彼女からタブレットを受けとった。互いの指先が、一瞬触れた。「トマトの葉や茎の赤変なんか、聞いたことがないな」
「現在までに、宮崎県宮崎市、大分県竹田市、熊本県八代市、熊本県阿蘇市、熊本県山都町の五か所から被害報告が届いています」
「なるほど」私はイヤな予感がして、ネクタイを少しゆるめた。「それで?」
「ご存じのとおり、農水省は設立以来の伝統で、良くも悪しくも知見が米に集中しています。トマトに関する知見は皆無に等しく、こうした被害を分析できるスタッフが省内におりません」
「野菜農家に冷たくしてきた報いだな」
「助けてほしいんです」里中の右手が、いきなり私の左手首を握りしめた。「頼める人が、安藤先生しかいません」
 私はタブレットをテーブルに置き、彼女の右手をそっと引きはなした。
「トマトなら、農科大学に何人か専門家がいるんじゃないか」
「いらっしゃるんですけど、みなさんご自分のご研究に忙しくて」
「断られたか」
「山際先生にご相談申し上げたところ、先輩をご紹介いただいたんです」
 呼び方が「先生」から「先輩」に変わったが、気づかないふりをした。
 そろそろ潮時だった。私は断る理由を探した。
「そこまでにしよう。これ以上話を聞くわけには……」
 里中が、不意にぺろりと舌をだした。顔の表面に貼り付いていた「公」の仮面をとりさり、「私人」に戻る。ありていにいえば、“昔の女”の顔になった。

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