第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『俺が泣かせた女』

『俺が泣かせた女』

くわがきあゆ 30歳
1987年生まれ。講師。


 序

 定時に仕事を切り上げるつもりだったのに、外回りを終えて帰社してからの書類作成に手間取ってしまった。
 急いで会社を飛び出したが、電車を乗り継ぎ、大川陽太郎(おおかわようたろう)の実家に着く頃には午後九時を回っていた。
「夜分にすみません」と玄関口で詫びると、
「とんでもない」
 陽太郎の両親は揃って壊れそうなほど激しく頭を振った。
「こんな時間になっても来ていただいて、私達の方こそ申し訳なく思っています」 
 陽太郎の母がお茶を用意しようとするのを断って、仏間に上がった。仏壇では陽太郎がいつもの日焼けした笑顔で額に収まっていた。あの、夏の海みたいな笑顔。
 俺は仏壇の前で正座し、線香を上げた後、手を合わせた。軽く目を閉じて陽太郎の冥福を祈り、誓いを新たにする。いつのまにか瞼に力がこもっていた。
「本当に、もうかまわないんですよ」
 腰を上げると、陽太郎の父親がこう声をかけてきた。
「愛敬(あいけい)さんが陽太郎の月命日に来てくださることには感謝しています。でも、仕事もあるし、毎月必ず来てもらうのは大変でしょう? あの子ももう十分に満足していると思います」
 父親の隣で母親も頷いている。二人の顔の、膨らませた後の餅のような小皺が痛々しかった。俺は低い声で尋ねた。
「迷惑ですか」
「いえ、とんでもない」
「じゃあ、来させてください。義務や何かじゃなくて、俺はここに来たいから来ているんです」
 はっきりと言うと、ようやく陽太郎の両親の顔に笑みらしきものが浮かんだ。俺は横目でちらりと陽太郎の遺影を見やった。
 訪ねてから十五分ほどで陽太郎の実家を辞した。来た時と逆方向の電車に乗って自宅に向かう。しかし、最寄り駅より二つ前で途中下車した。そこから海岸の方に向かってぶらぶら歩く。陽太郎の実家に行った帰りはなぜかいつも海が見たくなる。
 歩き始めてすぐに、スーツの上にコートを羽織っただけで来たことを後悔した。先月の月命日に来た時とは空気が別物だ。完全に凍りついて、毛穴に張りついてくる。
さらに、海岸沿いの道路に出ると、正面から強い海風が吹きつけてきた。それでも俺は歩を進めて、人影のない道路を横切った。海側にはガードレールが白く浮かび上がっているが、一部途切れているところがある。見晴らしのいいそこに立ち、足下に通勤用の鞄を置いた。風から手元を庇いながら煙草に火をつけた。深く吸って吐くと、ぼやけた煙が海へ向かって流されていく。
 十一月の海は少し荒れていた。広大な真っ黒の空間のところどころに、白い飛沫の筋が現れては消える。泡のように儚い人間の命、という言葉を聞いたことがある。
 陽太郎。
 肺の中に白く冷めた煙が充満する。
 背後から一際強い風がぶつかってきた。不思議な音の鳴る風だ。
「……メ……」
 いや、違う。
 気づいた時には、俺の視界はぐらりと動いていた。夜空の数個の星が急上昇し、海が近づく。自分の体が傾いているのだ。風ではなく、実体を持った何かが俺の背を押した。勢いがついて足が二歩三歩、と勝手に前進する。海に面した先へ。
 何だ。とっさに上半身を捻って背後を見た。人の形の黒い塊があった。顔はまったくわからない。こいつに押されたのか。俺は傾いた体勢のまま、反射的に影に向かって右腕を伸ばした。指の隙間から飛行機のように赤く光る煙草が飛んでいく。その手で、自分を押した黒い塊のどこかを掴んだ。捕まえようというよりは、自分の体の傾きを止めるためだった。この先に飛び出してしまえば、下は荒れた海だ。海に面した壁はコンクリートか何かで整備されていて、転落を免れるために掴めるような出っ張りはない。
 黒い影に取り縋る形で、俺の体はやっと止まった。が、直後に影は俺の手を振りほどこうと激しく動き始めた。俺も右手に力を込めたが、体勢が不利すぎた。
 ぷつっというような手応えを最後に残して俺の体は振り払われ、支えを失った。よろめいた足の下に、アスファルトの感触はなかった。道路の向こうに出てしまったのだ。すうっと腹の底が持ち上がる。
 嘘だろ。
 ずるずると壁を滑り落ちるような形で、俺は落下していった。磯の香りが急に強くなり、死ぬと思った。波に飲まれたら終わりだ。必死で手足をばたつかせる。だが、冷えきった壁は磨かれたように凹凸がなく―。
 ふいに、腹の底が落ち着いた。むちゃくちゃに動かした左手が、何かを掴んでいた。壁から十数センチ突き出たパイプの口だった。そこに偶然手がかかって宙吊りになり、俺の体は不安定ながら海への転落を免れていた。助かった。
 しかし、息をつきながら上を見上げてぎくりとした。黒い丸い影がこちらを覗き込んでいる。俺を突き落とした人間が。
「……」
息が詰まるような沈黙。やはり相手の顔は見えない。ただ、そこから投げかけられる灼けつくような視線は闇の中にもはっきりと感じられて、肌がぴりぴりした。俺が助かったことに気づいている。
 ここで上から物でも投げられたらひとたまりもない。たとえば、地上に置いてきた鞄を落とされたりしたら、今度こそ確実に海の底だ。
想像して血の気が引いたが、案に相違してその頭はすぐに引っ込んだ。かすかな足音が響き、そいつが遠ざかったことがわかった。落とす物を探しているのだろうか。
 警戒してしばらく息を詰めていたが、足音は戻ってこなかった。襲撃者は逃げていったらしい。
「ああ……」
 思わず大きなためいきが洩れた。今度こそ助かったのか。その時になって、全体重を支えている左手に強烈なだるさを感じた。とにかく地上に戻らなければ。
 俺は体を引き上げる手がかりを探して右手を持ち上げた。すると、頬を何かがなぞった。間近で右手を見た。指の間に三本、髪の毛が引っかかって、海風の中で幽霊のように揺れていた。

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