第16回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み『愛の記録』

『愛の記録』

貴志祐方(きし・ゆうほう)28歳
1989年生まれ。神戸大学文学部人文学科卒業。塾講師。


 今夜も、月が昇る。
屋敷全体が眠りに就き、夜の空気がしんしんと冷えて獣の遠吠えが遠くから聞こえてくる刻限。それはめくるめく私たちの愛の時間だった。
 寝室のベッドの上で二人きりでいると、正純(まさずみ)さんが強引に、でも優しく労わるようにして私を抱き寄せてきた。正純さんは、愛しているよ、と言い、私も、同じ気持ちだと返す。
愛の契りを結んだ二人にとって、それ以上の言葉は不要だった。私たちはなだれ込むようにしてベッドに倒れ込み、互いの体をまさぐり合った。触れ、つねり、舐め、噛む。どちらもが相手の体の一番敏感な部分を知り尽くしているので、行為は圧倒的な快感を伴って進む。私と正純さんは抑えきれない吐息を漏らしながら、ベッドの上で薔薇の蔦がもつれるようにして絡まり合った。
 やがて、気持ちを抑えきれなくなったのか、正純さんが自らの衣服を脱ぎ出し、また私の寝衣にも手を伸ばした。私は抵抗せず、されるがままになる。衣一つまとわない裸体になった私は、それを隠すこともなく正純さんに見せつけるようにした。私の裸は正純さんのためだけにあるのだ。それなら、どうして隠すような真似をしよう。正純さんのためにこの体を捧げることこそが、私の使命であり宿命なのだ。
 既に受け入れる態勢になっていた私の中に、正純さんが入ってくる。今夜は特に興奮しているのか、正純さんはそのまま小休止を入れずに早速動き始めた。揺れの度合いもいつにも増して激しい。私はそんな正純さんを愛おしく感じつつ、堪えきれない喘ぎを漏らし続けた。
 窓の外では、照り輝く満月が揺れている。満天の星々もまた、それに合わせるように振動を繰り返していた。私はその光景を見つめながら、ああ、自分は幸福だと思う。この世に生を受けて、本当に良かったと思う。
 これだけ、愛する人に求められているのだから。

「辻内(つじうち)君、ちょっと聞いてほしい話があるんだが、いいかね?」
 沢村(さわむら)教授の研究室で書籍を整理していると、教授がやけに勿体ぶった調子で話しかけてきた。もしや現在作成中の博士論文のことか、と僕は身構える。だが、教授はそんな僕の内心を見透かしたように、
「ああ、博士論文の話じゃない。もっと耳寄りな話だ」
と含み笑いをして僕に席を勧めた。そしてそのまま窓際のコーヒーメーカーのところまで行き、ポットを外して二人分のカップにコーヒーを注ぐ。教授は最近コーヒーに凝っているのだ。
「まあ、飲みたまえ」
カップが僕の元に差し出される。僕はそれを恐縮して受け取り、カップの中のコーヒーを口に含んだ。すぐに飲み込みはせず、敢えて一口舌の上で転がしてみる。苦味と酸味が程よくバランスを保っていて、甘美な味わいが舌を突いた。相変わらず、僕好みの味だった。
「さて、耳寄りな話というのはだね、アルバイトのことなんだ」
 教授はコーヒーの香りを存分に味わい、苦味と酸味の良好なブレンドを少し口にしてから言った。
「君は確か、学部一回生の頃からずっと家庭教師のアルバイトをしているということだったね?」
「ええ、そうです。もちろん、今でも続けていますよ」
「受け持った生徒さんおよび、保護者からも評判は上々とか」
「まあ、仰る通りです。生徒さんが優秀だったから、やりやすかっただけかもしれませんが」
 多分な謙遜を以って僕は答える。本音では、自分は優秀な家庭教師だという強い自負があった。
「そんなことはない。君は優れた家庭教師だよ。もっと自信を持っていい」
 褒められると悪い気はしない。つい、耳寄りな話とやらに興味が湧いてくる。知らず知らずのうちに、僕は教授のペースに乗せられていたのである。
「それで、先程から仰っている耳寄りな話というのは何でしょう」
 結局、僕は自分の方からその件について尋ねた。すると教授は、満足そうに種明かしをしてくれた。
「実は、知人から優秀な家庭教師を探してくれと頼まれたんだよ」
なるほど、教授は僕に家庭教師のバイトを頼みたかったのだ。
「頭の切れる文系の学生を一人お願いしたい、と頼まれていてね。私の研究室では、辻内君、君以外に適任者は思い付かなかったということだよ」
 また褒める。ここまでくると断りづらい雰囲気だが……聞くことは聞いておかねばならない。
「条件はどうなんですか? 時給とか、希望の日時とか。今現在、他にも受け持っている生徒はいますので、あまり無茶な条件だと……」
「ああ、その点については、一切心配はいらないよ」
 教授はなおもコーヒーの香りを嗅ぎつつ、余裕たっぷりに答えた。
「時給は、五万円出すそうだ」
「ご、五万ですか?」
 僕は危うく、口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。時給が五万円――。そんな厚遇のバイトなど、今まで聞いたことがない。
「五万円って……。それって、日給じゃないですよね?」
「いいや、時給だよ。その点は私も驚いて、本当かどうかしつこく確認したから間違いないよ」
 僕は唖然としたが、同時にこのバイトに見る見る興味が湧いてきた。同じ博士課程後期の恋人、宮村(みやむら)環奈(かんな)とは近いうちに結婚するつもりだ。ただ、悲しいかな博士課程後期の貧乏学生にはその資金がない。そのため、今から結婚資金を貯めておくことが必要なのだ。そういう意味では、このバイトはうってつけのように思えた。
「どうだい辻内君。それとも、宮村君みたいに最近の若い子は欲がないから、君もこの話は断るかい?」
「い、いえいえ。やります。やらせてください」
 他の条件も鑑みず、僕は即答した。なぜか環奈を欲のない若者の代表にした教授は嬉しそうに、そうかそうかと朗らかな笑みをこぼす。
「それでは決まりだな。明日の午後一時、ここ文学部の駐車場に迎えの車が来る。それに乗って依頼主のお宅まで案内してもらいなさい」
 時給で五万円も出すような親というのは、一体どのような人物なのだろう。やはり金持ちで、余程の教育ママなのだろうか。色々と想像しつつ、僕はコーヒーの最後の一口を啜った。

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