第18回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 親指ほどの

『親指ほどの』

京家きづ(きょういえ・きづ)38歳
1981年、京都府生まれ。
大阪医科大学医学部医学科卒。日本消化器内視鏡学会・日本内科学会認定内科医。


       四月一日:再会

「はぁ~」
 吉長遥は大きな溜息を一つ漏らしてから、窓の外をじっと見つめた。満開の桜は眩しいほどにピンク色で今の遥には痛々しかった。
「おまえな、溜息ばっかやめろや。四月始まったばっかりやぞ」
 奥内はレンゲですくったチャーハンに酢豚をのっけて口に放り込む。元ラグビー部主将だけあって、カロリーがっつり系が似合う。噛むたびに角ばった顎から筋肉のスジが浮き立つ。
桜の下では大学新入生たちが楽しげに写真を撮り合っている。ああいう風に桜を楽しむことは二度と出来ない。そう思うと胸に陰鬱な重みがのしかかってくる。
「ふっ、はぁ~」
 さらに大きな溜息を放つ。
「だからやめろって、こっちも憂鬱なってくるわ」
「口から抜かないと。たまると鬱病になっちゃう」
 くしゃみをする前のような、もしくは泣き出す前のような。何かが詰まったそんな顔を自分がしているのがわかる。窓でも桜でもないどこかを見つめる。奥内はこちらをちらりと見て、同じような溜息を漏らした。
「おまえの顔見てたら食欲なくなるわ」
「脳外科いやや~。消化器外科で自分が外科に向いてないってわかったし」
 消化器外科で過ごした前月の一か月が未だ重く胸にのしかかっていた。真剣に向き合えば本当に滅入ってしまうから、今だって愚痴っぽい女のように振舞っている。
そんな中での続けざまの外科、今月から脳神経外科での研修が始まるのだ。
「外科おもろいやん。切ったり縫ったり繋いだり、単純でいいやん」
「脳なんて切りたくもないわ」
「まあ、脳は胃とか腸みたいに繋いだりせえへんしなぁ。やっぱ外科っていったら、消化器外科やな。胃腸は繋いだりいろいろできるからな」
「単純でいいね。わたし医者自体に向いてないわ」
 先月から耳鼻科で研修を続けている奥内はすっかり耳鼻科に馴染んでいる。
「さっそくオペになりそうやねんな」
今日も受け持ち患者の一人が急変し、緊急手術になるらしい。
 ぴりりりり、
「そら、来た」
 奥内は白衣のポケットからPHSを取り出す。
「なんや、おまえのやん」
 奥内は手に取ったPHSでこちらを指した。
 ぴりりりり、
遥かは胸ポケットからPHSを抜き取ると、画面を見た。
〈脳外科 渋谷 まち〉
ぴりりりり、
咳払いをして、
「はい、研修医吉長です」
 仕事用の声色に変える。
「はるちゃん、さっき急患来たの。ホットラインで直接」
 渋谷の甲高い声が飛び込んでくる。顔をしかめて、PHSを少し耳から遠ざけた。奥内は隣でふふっと鼻息を漏らす。
「お昼休みだけど、すぐ来て。緊急なの」
「はい、すぐ行きます」
「救急室ね」
 電話を切ってPHSを胸ポケットにしまい、しぶしぶと立ち上がった。
「元気な上司でいいな。おれのなんか、いつも不機嫌なおっさんやぞ」
 奥内は羨ましそうに見上げる。奥内を一瞥してから、
「そういう問題じゃないから」
 手に持っていた野菜のパックジュースをゴミ箱に投げ込んだ。
 研修医控室を出ると、昼時で看護師や学生たちが渡り廊下に溢れていた。隙間を縫うようにして渡り、下りの階段に入る。階段を下ってすぐに救急室はある。太い赤文字でERと書かれたドアの前に着いた。
研修医控室と救急室が嫌がらせ並みに近いことが今では救いだった。一人で歩いていると、先月の出来事が思い出されるからだ。大きく息を吸い込んでから、
「失礼します」
 ドアを開けて入った。看護師数名がちらりと目線をやり、すぐに逸らした。彼女らの横顔には『先生かと思ったら、なんだ研修医か』がありありと浮かんでいた。
どこの科にも属していない研修医は全ての部署でアウェイなのだ。へこたれていては生きていけないとかまわず奥へと進んでいく。カーテンで仕切られた間に一人ずつ患者がベッドに横たわっている。途中からカーテンは閉まっていて、やむなくその一つに首を突っ込んだ。
 カーテンの中では顔面包帯グルグル巻きの患者と、覗き込むように診察する白髪の老医師、傍らには女子プロレスラー張りの肩幅をした看護師が一人。探している顔はどこにもない。
「すいません」
 怒られる前に逃げるが勝ちとカーテンから首を素早く引っこ抜く。今度はそっと隣のカーテンを覗くと、蒼白な顔色をした男性とその胸元で泣いている女性。どちらも見覚えのない顔。
〝すいません〟
カーテンから首を抜きながら心の中で呟いた。カーテンを閉めても、女性のすすり泣く声が聞こえてくる。こちらまで胸が重たくなってくる。これからはカーテンを開く前にすんすんという息遣いが聞こえないか確認しよう。
沈んだ心を吐息一つで捨てて、次のカーテンの前に立った。耳を澄ましてもすすり泣く息遣いはなく、シューーっという酸素吸入の音だけが聞こえてくる。カーテンに手を伸ばしてゆっくり開けた。
 二回連続の見当違いの後、とうとうお目当ての姿に行きついた。渋谷のすらっとした白衣姿に一瞬で目が奪われる。艶のある黒髪につけられたヴィトンの髪留めは程よく色味を抑えられたもので渋谷の雰囲気に良く似合っている。
「はるちゃん」
わたしもミディアムからもう少し髪を伸ばそうかなと考えながら、
「遅くなりました」
 遥はカーテンの中に入っていった。渋谷はいーよと小さな口で呟いた後、ベッドの男性に目を落とした。遥もつられて落とす。左の側頭部にガーゼが貼られたこの男性患者にどこか見覚えがあった。
しかし、髪がひどく乱れていて無関係にも思える。こんなみすぼらしい人、はたして周りにいただろうか。となると、どこかの科を回った時に受け持った入院患者だろう。巡らせてみても、特段思い当たらない。
「はるちゃん」
 渋谷の声から白衣の響きが無くなる。
「田中先生ってさ、はるちゃん、たしか」
「はい、先月まで。っていうか、昨日までついてました。べったりと」
 先月の一か月、遥は田中という上司について消化器外科の研修をしていた。渋谷はとてもすまなそうな顔をして、
「田中先生、脳出血起こしたの。クモ膜下出血で、厳しいの」
 口をぐっと絞った。
「わたしも研修医の時、田中先生に一か月ついてたんだよね」
 渋谷は力なくすとんとその場に屈みこんで、ベッド柵を囚人みたいに両手で握った。ベッド柵の隙間から潤んだ瞳で男性患者を見つめた。患者はわずかに薄く目を開いていたが虚ろな黒目から意識がないことがわかった。
「昨日まで……」
 今まで一度も田中の乱れた頭髪を見たことがなかった。いつも、きっちり七三で石鹸の匂いがした。痩せたこけた小顔で白髪交じりの七三分け。性格は真面目で控えめ、優しい親戚のおじさんといった風な。つい、昨日までは。
「先生……」
 問いかけにも田中は瞳を明らかにしない。両方の黒目がそろって右斜めを向いており、まるで脳の出血部位を睨んでいるようだ。
「もうしばらくで、警察が来るって」
「警察?」
 よく考えれば受傷機転を聞いていない。てっきり、自宅で階段にでも落ちたのかと思い込んでいた。誰かに殴打されて運ばれてくるよりも、転んだり交通事故だったりが圧倒的に多いのだから、しょうがない。
「自宅でね、倒れてるところを発見されたんだって。今事務局によってるらしくて、しばらくしたらこっちに話を聞きにくるって」
 急に冷えたトーンに息が止まる。自宅で倒れただけでは警察は来ない。なんらかの事件性があるのだろう。遥は聞かれるべきことを頭に巡らせた。何を聞かれるか見当もつかなかったが、頭に一つだけ隠すべきことが浮かんだ。田中の秘密。
しかし、まさかそんなことをわざわざ警察が聞きに来たわけではあるまい。そうわかりつつも、交換し合った二人の秘密が頭から離れなかった。

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