第5回『このミス』大賞 1次通過作品 立読み

『トライアル&エラー』

伊薗旬(いぞの・じゅん)
1988年 関西大学経済学部卒業
同年 国内コンピューターメーカー入社 現在も勤務


 第一部

  1

 冷たく澄んだ空気の中で、月は明るく青白い。辺りに光を発するものなどないせいか、星の数も東京よりは多いように感じる。緑の草が綺麗に生え揃ったなだらかな丘の上には、濃い色をした針葉樹の林が厚く載っていた。その向こうに上半分を覗かせている焦茶色の立方体が、ターゲットとなる研究所だ。晴れた夜空を背景にしたその建物は話に聞く難攻不落の要塞というよりも、まるで洒落たチョコレートケーキのような、とっておきのお楽しみに見えた。
 ここまで運転して来た男が、俺の隣でルーフを開ける操作をしながら言う。
「あの通り外観はシックな資産家の邸宅か郷土史の記念館風に見えるだろ。しかしどんな警備システムが敷かれているやら。新旧取り混ぜ色々と仕掛けてある、トラップの宝庫だったりして」
「反対に、最新式システムを取り入れたはいいが、全体のバランスを欠いてて使い物にならない状態かもな」
 乗って来た青いキャデラックSRXのルーフが全開になるとそこから顔を出し、月明かりで細部に目を凝らす。外気の予想外の冷え込みに二人とも首をすくめた。
「門脇、これを使うといいよ」
「お、どうも」
 彼は自分の曇った眼鏡を外して磨きつつ、俺には双眼鏡を手渡してくれる。ストラップを首にかけながら訊ねた。
「ここからじゃよく見えないが、警備員や犬もいるんだろう?」
 レンズを通すと拡大された建物の外観が迫ってくる。壁は煉瓦造りでなく縦長のタイル貼りで、色もかなり黒っぽかった。遠目には立方体に見えていた外形も、水平に近い屋根の縁がほんの少しだけ周囲にせり出しているのがわかる。そのあるかなきかの軒下に、黒い円筒形の監視カメラが設置されていることが確認出来た。
「……うーん、悪い。そこは今のところ未調査。君の方の情報は?」
 俺が双眼鏡を覗いている間に彼はファイルを開いて、ペンライトの明かりで資料を読んでいたようだった。
「社内の話じゃ、あの研究所には最新式の完全独立型自動化システムが導入されていて、外部と遮断され閉じた運用が可能なんだ。監視カメラは警備会社でなく屋内の詰所に繋がっているし、各種センサーも館内に装備されたシステムに対してのみアラームを上げるように設定出来る。だから必ずしも警備会社のセンターで二十四時間監視していなくてもいいし、警備員は外からは呼ばなくても済む。ただこれは飽くまでもそういう運用が出来るという話であって、そうされているとは限らない」
「でも確かに人の気配はあまり感じられないね。君や広報資料の言う通り、きっと独立型の運用なんだよ」
「広報って?」
「先月あそこで、投資家や大手顧客だけが招かれる新システムの内覧会があって、その時配られた資料をこっそり入手した。もっとも肝心の部分は口頭での説明に留まったそうだけど」
 彼はファイルから取り上げた書類束を弾いた。『関係者外秘』と書いてあるところを見ると、どうやら招待客の一人を抱き込んで、配布された資料を回収、裁断されてしまう前にすり換えて持ち出させたらしい。顔に似合わずあくどいことをやるものだ。もっとも俺の義憤も、単に前の職務上の立場からくるものに過ぎなかったが。
 遮る物のない広大な原野を風が吹き渡る。かなり冷えてきた。この北の土地では秋も冬もいち早くやって来るのだろう。俺はマフラーを上着の襟の中へ押し込んで、周囲の状況を含めた全景を見渡した。時は九月半ば、所は北海道の内陸地帯。東を大雪山系、南を十勝山系に囲まれた上川盆地の一角だ。なだらかな丘の直径はざっと三キロメートルといったところか。その広大なエリアがあの建物を含めて丸ごと、一企業の所有になっているのだ。
「なあ丹羽、写真は撮らなくていいのか?」
 俺の言葉に彼は調子良く答えた。
「以前昼間に来た時に、もう沢山撮ってあるよ。今日は君に決心して貰うためだけのプレゼンと思ってくれ」
 とか何とか言いつつ帰りには、携帯の電波の届く範囲をついでに確認して帰ることになっている。携帯電話ショップの営業ウーマンが申し訳なさそうに説明してくれた通り付近一帯は圏外になっているわけだが、この場合の俺達には逆にその方が望ましい。
 俺はルーフの閉まる前に、見納めのつもりでもう一度丘の上の建物を眺める。それはやはり、いかにも愛らしい様子で佇んでいた。子供の頃にお気に入りだった絵本の頁のように、繰り返し見る夢の中の景色のように、どうにかして近くへ行って、中へ入ってみたくてたまらなくなる、不思議な魅力を発散して。

  2

 三十四歳にもなった大の男が、下戸だとか甘党だとかいうことを白状するのはなかなか気恥ずかしいものである。だが今俺の目の前に座りバターコーンラーメンをすすっている男は学生時代の親友で、女の好みから第二外国語の追試の点数まで周知の仲だ。奴が下戸だなんてことも、俺が甘党だなんてことも、お互いとっくにわかっている。
 丹羽史郎。俺、門脇雄介と同じ大学の同じ学部を同じ年度に卒業したこの優男は、やや長めの茶色の髪と屈託のない笑顔のせいで実際の年齢より若く見えるが、当人がそれを嬉しく思っているかどうかは預り知らない。女に受けの良さそうな容姿に恵まれてもいたが、当人がそれを満更でなく思っているのは知っている。
 学生時代の同期の連中の中で妙に気が合ったものだから、授業中も昼休みも授業の合間も、こいつと一緒にいる時間が一番長かった。居酒屋や俺の下宿で何度も徹夜で飲み明かし初体験の顛末から将来の進路まで語り合ったわけだから、照れながら親友と呼んでも差し支えないんじゃないかと思う。
 それなのにお互い薄情なもので、卒業後はぱったりと会うことがなくなった。やがては連絡を取り合うこともしなくなった原因には、ひとつには俺の家庭の事情があったわけだが。
 彼の方にも理由はあったのだ。それを聞かされたのは卒業から十二年も経ったつい先々週に突然再会してから、さらに後のことだった。
 俺は一足先に石狩味噌ラーメンを片付け、スープを飲みながら思った。見るからに遊んでいる風のこいつに比べれば、俺の方が幾分老けて見えるに違いない。IT系企業の総務部門に務めるサラリーマンとして、俺は髪型も長さも、シャツの色からネクタイの柄まで、俺の外見はいたって平凡で目立たない。もみ上げを少々伸ばしているのはオヤジくさくならないためのささやかな抵抗に過ぎないが、身体能力を維持するための努力は日頃から怠らなかったし、物心ついた頃から強いられている特別な緊張感からか、甘党にも関わらず腹周りの余計な脂肪なんてものも、それはそれで目立たなかった。
 そこまで考えて急に可笑しくなる。俺は何をむきになっているんだろう。この古い友と再会してから、長らく忘れていた同世代の男への対抗意識が蘇えってきたようなのだ。まるで切っていたスイッチを入れ直したかのように。
 そんな感慨に耽っている時だった。突如視界に飛び込んで来て移動してゆく物体に、丹羽と俺は二人同時に目を奪われてしまう。それがあまりにも華やかだったから。
 タクシー乗り場の方へ大きなストライドで歩いてゆく派手な女がいた。赤味ががったつややかなストレートのロングヘア。目許はサングラスに覆われていてさえ大きくて表情豊かだったし、唇がまた形良くゴージャスなボリュームを誇っている。短い毛皮のボレロの下のラメで飾られたTシャツや、ローライズのクラッシュジーンズと膝丈のローズ・タンのブーツには、まるで加圧充填したように胸と腰と脚をきっちりと封じ込めていた。何と強烈で心地好い刺激。
 断わっておくが決して俺の好みじゃない。その証拠に悪口ならいくらも思いつく。品がないとか、気が強そうだとか、頭が悪そうだとか。しかし遺伝子を残すための配偶者獲得競争に悉く打ち勝つことが出来そうな、溢れんばかりの生命力を彼女は確かに備えていて、その点で他を圧倒していた。
 少々ひねくれているかも知れない俺などを除けば、概して男はこういうタイプが嫌いじゃない。特にこいつ、丹羽にとっては——女の好みが学生時代のままならば——まさにド真中ストライクのはずだ。
 案の定、丹羽の首から上は彼女の動きを追って、完全に横を向いてしまっている。ほら見ろ、やっぱりだ。わかったわかった、お前は昔と変わっちゃいないよ。わかったからそんなに物欲しそうに見るな。あんまりあからさまに見つめ過ぎると、彼女のすぐ後ろを荷物を抱えて着いて行く、身の丈百九十センチはありそうな筋肉質の大男に睨まれるぞ。
「おい」
 俺はテーブル越しに奴の肘を突付く。
「……あァ?」
 これだ。俺にこの話を持ちかけてきた時の如才なさはどこへやった。派手な女と荷物を持った大男はもうすっかり遠ざかり、空港ビルの外でタクシーを掴まえて乗り込もうとしていた。
「おい、あんな『グラディエーター』みたいな奴に敵うとでも思ってるのか」
「『ランボー怒りの脱出』みたいな奴?」
「『コナン・ザ・グレート』みたいな奴」
「『超人ハルク』でもいいよね」
「何か、だんだん古くなってないか?」
 丹羽はそれには答えず、自分の頭を指差して悪戯っぽく言った。
「敵うさ。こっちでね」
 ああ。やはりこいつは、昔のままなんだな——俺は何年も前の既視感に襲われ、つい先々週の記憶を反芻し、笑い出しそうになり、実際に笑い、そして決断した。

つづく

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